【二十歳のころ 高須克弥(1)】家康公助けた“ご先祖様”医者の道しかなかった

【二十歳のころ 高須克弥(1)】家康公助けた“ご先祖様”医者の道しかなかった

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  • 更新日:2017/11/14

大型連載の第33回は、美容外科医で医学博士の高須克弥氏(72)が登場。昨年のリオデジャネイロ五輪では、資金難に陥ったサッカー男子ナイジェリア代表チームに、銅メダル獲得ボーナスと支援金として計39万ドル(当時約3900万円)を贈呈し、話題となった。人生を楽しみ、常に注目を集める破天荒な高須氏。その原点は二十歳の学生時代にあった。

ほぼ毎日、雀卓に向かっていた二十歳のころ。僕と人とをつないでくれたのはマージャンだった。これがなかったら今の僕はなかったと思う。本当だよ。その話はもう少し後でしますよ。

僕は愛知県一色町(現西尾市)に生まれた。ご先祖様は、徳川家康公を助けたのがきっかけで代々医療に従事してきた。だから歌舞伎役者と同じで、生まれたときから医者の道しかなかった。昔の医者は免許がなく、華道や茶道のように流派があって、自分たちで勝手に弟子をつくってやっていた。医師免許の制度化は明治時代になってから。僕の家では祖父母、両親、僕と女房、そして息子夫婦。夫婦とも医者で4代続くのは世界的にもまれ。もうすぐでギネス記録になりそうなの。

本当のことをいうと数学や物理の理系科目が苦手で、歴史や古文が得意だった。全国統一模試で上位に入っていたから「法学部に入って弁護士でもいけたんじゃないか」と周囲からいわれたけど、祖父母に「そんなものになっちゃ駄目」と怒られた。人助けという意味では同じだと思うけどね。先祖代々だったから、結局医療の道を選んだ。医学部に入ったのは車の免許と同じで、「せっかくなら医師免許はとっておこう」。それくらいの気持ちだったの。

東海高(愛知)を卒業して1963(昭和38)年に昭和医大(現・昭和大)に入学。地元の名古屋市立大や順天堂大、日本医大など5つ受けて全部合格したんだけど、昭和医大に決めた。理由は簡単。入学金が格安だったから。父親が卒業した学校で、入学金が半額だったの。今でいう“家族割”みたいなもの。だから、昭和医大に進むことを決めたわけ。

東京に行って最初のころは旗の台(品川区)で下宿生活をしていたけど、途中から上野毛(世田谷区)の掘っ立て小屋のようなアパートに移った。もちろん自炊もした。近所の畑から野菜を頂戴して、インスタントラーメンにぶっ込んで食べていた。野菜たっぷりだから栄養は十分。当時の上野毛は農地ばかりで、大家さんの畑で収穫されずに残って悪くなる前のものをとってきていたんだけど、目をつむってくれていたんだろうね。まったく怒られなかった。だから、学生時代は料理をしても野菜を自分で買ったことがなく、食費がけっこう浮いちゃった。

大学入学後は空手部に入部した。小さいころ、近所の悪ガキたちによくいじめられていた。おやじがバットを持ってきて「あんなやつらに負けるな。たたき殺してこい」くらいのことまでいわれて立ち向かった。だけど、相手は力自慢の農家や漁師の子供ばっかりだから簡単に返り討ちにされていた。それで強くなろうと思ったの。 (あすに続く)

高須克弥(たかす・かつや)

1945(昭和20)年1月22日生まれ、72歳。愛知・一色町(現西尾市)出身。愛知・東海高から昭和医大(現昭和大)医学部に進学し、同大大学院2年時に西ドイツ(当時)へ留学。74年に地元で医療法人福祉会高須病院を開設した。美容外科の分野では日本に「脂肪吸引手術」を普及させた先駆者。芸能界、財界、政界と幅広い人脈を持つ。「ダーリンは71歳 高須帝国より愛をこめて」(小学館)など著書多数。「Yes、高須クリニック」のCMフレーズでもおなじみの美容外科「高須クリニック」院長、美容外科医で医学博士。

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昭和医科大在学時は空手、アイスホッケーに加え、ワンダーフォーゲルにも挑戦。高須氏(前列左から2人目)は何事にも精力的だった (本人提供)

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