シニア世代へ 「いいね!」が少ないのは当然

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  • 更新日:2017/12/07

「老後の不安」が蔓延する日本。そんななかで、今日のいわゆる「定年本」、「老後本」の内容に異を唱え、『60歳からの「しばられない」生き方』で全く新しい考え方を提案しているのが文筆家の勢古浩爾氏だ。勢古氏自身が、34年間勤続した洋書輸入会社を2006年に退職。以後10年以上の定年後人生を歩んできた。勢古氏が提唱する定年後、老後における人生の嗜み方について訊いてみた。

世間にしばられない

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世間には二つの意味がある。ひとつは、世間とは一般社会の価値観(一般通念)のことである(世間的価値)。もうひとつは、その範囲が、個人から、近所や会社といった小社会、一般社会と、時々に変わることである。

つまり、人は世間という言葉をその都度適当に使っていて、これが世間だというものはない。

世間の価値観の一番は、金を持っている者がエライ、である。いまはなくなったが、かつての所得番付がそうであり、いまでも世界の資産家ランキングやスポーツ選手の収入や、大企業がどれだけ儲けているかの情報や、一部の芸人がやたら他人の収入を知りたがるのは、その典型例である。

その価値観にはほかにも、会社はでかければでかいほどエライ(そこに勤めている人もエライ)があり、学歴は高いほど上、があり、有名人はエライ、があり、人は若く見えるほどいい、があり、人は明るくにぎやかなほうがいい、があり、長生きすればするほどエライ、があり、結婚は未婚より上、がある。

わたしはこれらのほとんどに興味がない(まったく興味がない、でないのは、わたしも一応社会のなかで生きているからである)。人がいい学校や大きい会社を目指し、より多い収入を望み、多くの人と交際できる人間性をもつことは、もちろんいいことである。それだけが「エライ」というのが、わたしは好きではないというだけのことだ。

それに60も過ぎれば、どんな人間も大差ないな、エライとされてきたものも大したことないな、専門家といえど、ピンは少なく、大半はキリばかりの専門家ばかりではないか、とわかり、そんな世間の価値観がどうでもよくなるのである。

世間の範囲も適当である。太宰治が喝破したように、世間が許さないというのは、おまえが許さないということだろ、というように、ひとりが、あるいは数人が、ときには小集団が、あるいは一般社会が、「世間」という隠れ蓑を着たり、着させられたりして出現するのである。

常識や習俗や慣習や文化が長年にわたって混合され、曖昧模糊とした社会的規範として出来上がったものを、一人ひとりが適当に切り取って「世間」を僭称する。そんな世間が無責任なことはいうまでもない。

世間の口に戸は立てられない、という俗諺は、世間(一人ひとりの人間)はただ好き勝手をいうからである。実体はその時々で姿を変え、たしかな根拠などあるわけがないのである。

世論も世間である。世論というが世論に「論」はない。パブリック・オピニオンといってもパブリックもオピニオンもない。あるのはマスコミで流された論調に雰囲気的に乗せられたプライベートな好き嫌いだけである。

大体、自分のことで手一杯の一般の人間に、安保関連法案や北朝鮮問題や原発やアベノミクスや医療制度や、その他諸々の問題について総合的判断などできるわけがないのである。政権支持か不支持かなど、テレビや新聞のマスコミの論調に乗っているだけである。

歳をとるにつれて、世間の流行にも興味はなくなる。世論調査や各種アンケートは、世間の傾向を知るにはそれなりに重宝だが、わたし個人としてはほとんど信じない。時に、世間の価値観に同意するのは、わたしの価値観と合致する場合だけである。

わたしは、近所や会社や交際という小社会の世間は、半ば意図的に狭めてきたから、そうでなくても大きな世間ではなかったものが、かぎりなく小さいものになっている。いかなる世間とも、ほぼ絶縁状態である。こちらから縁を切ったようなものだが。

わたしが生きている場所は、こんな小さな場所である。ひとりの世界に、世間はないのである。

世間体は自分体である

そんな世間を気にするのが世間体である。昔は「世間体が悪い」という言葉を聞いたものだが、最近はあまり聞かれなくなった。

世間体を気にする者より、おまえはもう少し世間に気を遣えよといいたくなるような世間無関係派が増えてきたということか。

だが、世間体という言葉は消滅しかかっているにしても、人の心のなかには依然として世間が棲んでいるようだ。世間の目など気にするな、といったかたちで。

こんなことをいったら(したら)どう思われるか、こんな格好をしていたらどう見られるか、こんな暮らしをどう思われるか――みじめだなとか、かわいそうにとか、さびしいんだなとか、バカなんだなとか、哀れだなとか、金がないんだろとか、ただのケチなんだとか、気が弱いんだなとか、思われるのではないか。男らしくないとか、なにもできないとか、老けてるなとか、じじいばばあだとか、汚いとか、太ってるなとか、行くところがないんだなとか、笑われているのではないか。

すべて自分がつくりだした妄想である。そう妄想するにはそれなりの根拠がないわけではない。この社会では、こうすればこう思われるといった「世間の目」が雰囲気として作られているからである。

わたしたちは大きくなるにつれて、いつの間にか、その「目」を自分のなかにもってしまうのである。つまり、自分もまた世の中や世の人を、その「目」で見ているのだ。世間体を気にする人は、世間の価値観を内在化しているのである。

つまり世間体とは自分体である。世間体を気にするとは、実体のない世間を相手に独り相撲をとっているのである。

「ネクラ」だの「結婚適齢期」だのが世間的価値として定着すると、だれかに直接いわれなくても、そういう目で自分を見るようになる。これらは少し薄れてきたが、まだ「女のしあわせは結婚」という価値観は残存している。これを内在化してしまうと、そこから抜け出すのは容易ではない。「老いらくの恋」は善悪どちらともいえず、両義的である。

自分のなかの「世間の目」を気にするあまり、こう思われているのではないかという気持ちを抑圧し、反対に、こう思わせてやると自己アピールするものが出てくる。

さり気ないものなら、まだかわいげもあるが、おれは偉い、おれは強い、おれは大物だと居丈高になると始末に困る。世間の目を恐れて行動が萎縮するのも、過度なアピールになるものも、自分自身の自由のなかで生きているのではなく、世間の目のなかで生きていることはおなじである。

自分が思っているほど、世間はあなたのことを気にしていない。

まったく気にしていないといっていい。あなたのことなど、どうでもいいのである。

個人のブログやフェイスブック事情がどうなっているのか知らないが、閲覧数が少なかったり、「いいね!」が少なかったりしてがっかりする人がいるらしいが、あたりまえのことである。自分は注目されている、と思う方がおかしいのである。

〈『60歳からの「しばられない」生き方』より構成〉

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