スバル創始者が夢想した「400機の爆撃機」の幻

スバル創始者が夢想した「400機の爆撃機」の幻

  • PRESIDENT Online
  • 更新日:2019/08/15

第2次世界大戦末期。SUBARU(スバル)の前身、中島飛行機の創業者・中島知久平は、超大型戦略爆撃機「富嶽」の開発を進めていた。それはアメリカ本土を爆撃できる飛行機を400機製造するという壮大な計画だった。なぜ「富嶽」は幻に終わったのか――。(第3回)

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写真=GRANGER/時事通信フォト第2次世界大戦期の日本での空襲の様子 - 写真=GRANGER/時事通信フォト

富士山の名を冠した幻の超大型爆撃機

中島飛行機が製造した飛行機のうち、創業期の頃のそれは設立者の中島知久平(ちくへい)の考えが形になったものだった。その後、マリー技師がやって来てからはフランス、ニューポール社の影響を受けたものに変わる。そして、初めて陸軍に制式採用された高翼単葉の九一式戦闘機からは小山悌(やすし)がエース設計者となり、彼のアイデアが全体を引っ張っている。

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提供=SUBARU中島知久平氏 - 提供=SUBARU

つまり、知久平が発想したのは創業当初だけで、その後は陸軍、海軍が仕様を決め、それに対して小山たち技術者が出した回答が中島飛行機製の戦闘機であり、爆撃機だった。

だが、大戦末期に開発を始めたある1機だけは知久平が主唱したものだ。実際に空を飛ぶことはなかったが、知久平が「これを作る」と声を上げたもので、コードネームは「Z機」。のちに富嶽と名付けられた超大型戦略爆撃機である。

日本軍がガダルカナル島から撤退し、イタリアが連合軍に無条件降伏した1943年、知久平は『必勝戦策』と題した論文を執筆し、東条英機首相と軍の幹部たちに献策した。

アメリカ本土を爆撃、ドイツ経由で戻る壮大な計画

『必勝戦策』の趣旨は次のようなものである。

「アメリカの工業力にもはや精神力だけでは到底、対抗できない。

時を経ずにアメリカから大型爆撃機が飛来して、本土を空襲、日本は焦土化する。その前に大型爆撃機を設計し、アメリカ本土へ飛ばし、アメリカから旅立ってくる飛行機の飛行場を破壊する必要がある」

アメリカ軍が初の日本本土空襲を行ったのは1942年4月。空母からの発進だった。そして、本格的な戦略爆撃は44年から始まる。飛行場はアメリカ軍が占領していたグアム島などマリアナ諸島である。B29のような超大型爆撃機は空母からは発着できないので、どうしても陸上の航空基地が必要だった。知久平の論文にはそういった点が欠落していた。知久平の目的はたったひとつ。それは「アメリカ本土を空襲する」ことだった。

彼は航続距離が非常に長い、どこまでも飛んでいける飛行機を想像していた。頭の中にあった超大型爆撃機「富嶽」はアメリカ本土を爆撃し、そのまま大西洋を横断、ドイツに着陸し、補給を受けてからもう一度、アメリカを爆撃して、再び日本に戻ってくる飛行機だったのである。あるいはドイツを飛び立った後、ソ連を空襲し、日本に戻るというルートも想定していた。

壮大ではあるのだけれど、当時の技術力では実用化は不可能だったろう。仮に着手したとしても、その頃の日本には超大型爆撃機を作るだけのジュラルミンや航空燃料を入手することはできなかった。

現代旅客機に匹敵するスペックを「400機作る」

彼の構想による仕様を見てみる。

全長45メートル。(ボーイング787は約60メートル)
航続距離 1万9400キロメートル(太平洋の空路はおよそ1万メートル)
爆弾搭載量20トン(B29の2.2倍)。6発エンジン

知久平はこの飛行機を400機、生産するべきと主張した。そのためにはゼロ戦、隼(はやぶさ)など小型飛行機の生産を減らし、かつ、戦艦、巡洋艦などをすべてスクラップし、全力を挙げて富嶽の生産に集中するべしとぶち上げた。

そうして、富嶽という強力な大型爆撃機でアメリカ本土を一撃し、アメリカ国民の厭戦(えんせん)気分を高めて、講和に持ち込もうというものだった。

富嶽は、一度は陸海軍が共同して開発することに決まる。中島飛行機の三鷹研究所内に組立工場の建設も開始された。ただし、陸海軍の幹部の指示により、エンジンの出力は下げられ、爆弾搭載量も20トンから15トンに減らされた。

研究に着手してから、開発スタッフはすぐにさまざまな壁にぶち当たった。まず高空を飛ぶためには機体の中に与圧キャビンを作らなければならない。次に機体に見合う外径が1メートルを超える航空用タイヤを開発しなければならない。さらに、巨大タイヤを引き込み脚にする工夫とその製造法も考えなくてはならなかった。高空を飛ぶことと、機体をスケールアップすることだけでいくつもの課題を克服しなければならなかったのである。

300万点の部品をそろえる工業力があるはずなかった

大型飛行機の製造は航空会社に技術力があるだけではできない。タイヤ、ガラス、ゴムといった基礎技術、与圧室設計、機体材質の開発など、その国の工業力が反映される。例えば自動車1台の部品数はおよそ3万点と言われている。そして、ジェット旅客機に至っては300万点もの部品がいる。300万点の部品を作るすそ野の産業が育っていなければ大型飛行機を作ることはできない。

アメリカには大企業、中小企業を問わず、さまざまな分野に技術者がいた。巨大タイヤでも、開発を依頼しさえすれば調達することができたのである。しかし、日本には幅広いジャンルで生産技術を持つ会社群が存在していなかった。そのため、すべてを中島飛行機が内製しなければならない。三鷹の工場の中で、何から何まで手作りしていたので、開発は遅々として進まなかったのである。

つまり、どう考えても、400機の富嶽を生産するなんてことは夢想だった。隼(はやぶさ)、ゼロ戦といった小型の戦闘機ならば日本人の努力と熱意と工夫でなんとか作ることができたけれど、富嶽は最初から、「飛ぶはずのない飛行機」だったのである。

和平交渉の切り札にどうしても必要だった

壁に当たったまま富嶽の開発作業は続いてはいたものの、1944年7月、マリアナ沖海戦に負け、サイパン島が玉砕したことで、富嶽を支援してきた東条英機は首相を辞職する。

すると、一緒に作業していた軍幹部から「本土防空戦のための戦闘機開発を優先する」と言い渡され、富嶽の開発は中止されてしまう。結局、試作機も製作されずに終わった。

この時、知久平はどうして、日本の工業力では実現不可能と思われる富嶽を400機も作ろうと提案したのか。彼は400機でアメリカ本土を空襲すれば勝てると思ったわけではなかった。

日本がずるずると負けている時期に、相手に大きなショックを与えればそれが和平交渉の契機になるかもしれないと考えたのだろう。真珠湾攻撃、マレー半島、シンガポール攻略など、日本軍の威勢がいいうちに「和平交渉をしよう」と言ったとしても、世論は納得しない。

しかし、戦局が有利に運ばなくなり、庶民の心に不安が兆し始めた時こそ、和平を言い出す機会だと彼は思った。

ただし、一方で勝ち始めたアメリカの政治家、国民はなかなか講和には納得しないだろう。そこで、アメリカ本土に大きなショックを与えることが必要だと考えたのだった。「日本にはまだ力がある」ことをアメリカに気付かせるにはどうしても超大型爆撃機が400機必要だったのである。

開発途上で敗戦、残ったのは「一流」の自負だけ

ここまでの考え方は間違ってはいない。知久平は行動力のある男だったから、東条英機という強い味方を作ることもできた。しかし、問題は開発だった。総合的な技術力がなく、時間がかかるうちに、ずるずると負け戦が続く。そうして、日本は乾坤一擲の計画を実施することができないまま、敗戦に向かって突き進んでいった。

敗戦後、中島飛行機に残されていた飛行機はアメリカ軍が研究のために持って帰ったものを除いて、すべてガソリンをかけて燃やされた。アメリカ軍が研究のために「整備せよ」と命令して持ち帰った機体は連山、彩雲(さいうん)、そして疾風(はやて)だけで、ゼロ戦、隼はすでに研究され、旧型の飛行機とみなされたのだった。

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提供=SUBARU中島飛行機の研究所 - 提供=SUBARU

中島飛行機の各工場にあった滑走路には碁盤の目状に爆薬が仕掛けられ、二度と飛行機が滑走できないよう徹底的に破壊された。

こうして敗戦の後、中島飛行機には何も残っていなかった。占領軍が持っていかなかったのは旧式の工作機械などの工場設備、わずかな材料、生活の道具と、そして、「オレたちは一流だ」という自負を持つ飛行機屋の魂だけだった。

106歳になっても“あの日”のことを覚えている

大正元(1912)年生まれで106歳になる太田繁一は中島飛行機に入社し、戦後はスバルに勤めた。仕事を離れてからは湘南の一軒家に暮らし、散歩とぶら下がり体操器で健康を支えている。100歳を超えてからも病気ひとつしたことはなく、頭脳は明晰そのものだ。

太田はあの敗戦の日、8月15日にどこにいて、何をやって、何を食べたかまで忘れたことがない。

「何しろ特別な1日でしたから、忘れようと思っても忘れられません。私たちはさつま芋ばかり食べていた。前田邸にあった中島飛行機本社の庭で作った芋を食べました。当時、私は社長秘書でした。しかし、社長は知久平先生ではありません。弟の喜代一(きよかず)さんです。もっとも終戦の頃は第一軍需工廠(しょう)という国家管理の軍需工廠になっていましたから、社長という名称ではありませんでしたけれど……。

丸の内から駒場の前田さんのところに疎開したこともよく覚えています。ふたつの建物のうち、洋館では750人が仕事をして、和館は群馬の太田にあった工場から出張してきた人間が宿泊する場所として使っていました。

そうそう、あそこの庭は芝生でしょう。それをはがして芋畑にしたのですが、いい芝生ってのは、はがすだけで大往生でね、芋畑にするには大変な苦労をしたことを覚えています」

負けることは、技術者が1番よく知っていた

敗戦の日、朝から空襲はなかった。アメリカ軍はすでに戦闘を終了していたのである。
ひどく暑い日の正午、太田をはじめ、社員たちは汗を拭きながら芋畑に直立し、昭和天皇の玉音放送を聞いた。

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」。放送が雑音交じりでよく聞こえなかったせいもあったが、感情を爆発させたり、慟哭(どうこく)した社員はひとりもいなかった。大方の社員の反応は「ついにこの日がきたか」といったものである。敗戦の年の夏には日々の空襲に際して、日本の迎撃機が上空へ上がっていく様子は見られなくなっていた。一方的に焼夷(しょうい)弾や爆弾を落とされて、消火活動に力を尽くすしかなかった。

戦場はすでに前線ではなく、日本国内だった。そういった事実を体験していると、都市に暮らす国民は誰しも、「負けは決まった」と分かっていたのだろう。

それに太田たちが携わっていたのは軍用機の製造である。その頃の主製品は陸軍に納める戦闘機の隼、疾風であり、海軍の戦闘機ゼロ戦(三菱製)にはエンジンを供給し、生産も請け負っていた。他にも月光(げっこう)、彩雲、橘花(きっか)といった軍用機の開発、試作を始めていた。そして、あらゆる軍用機を作る際、使っていた工作機械はほぼアメリカ製だったのである。また、開戦まで、飛行機の燃料になる石油はアメリカからの輸入品だった。

つまり、軍からの情報も入る。機体の製造に使う材料が払底していることもよく分かっていた。「このままではうまくいくはずがない」ことは中島飛行機社員なら口に出さなくともよく理解していたのだった。

※この連載は2019年12月に『ヒコーキ野郎が創ったクルマ スバル(仮題)』(プレジデント社)として刊行予定です。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
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