『サピエンス全史』実はギャグだらけ!? 秀逸すぎる表現の数々

『サピエンス全史』実はギャグだらけ!? 秀逸すぎる表現の数々

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2018/02/14
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世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』。手にしたものの途中で挫折した人も少なくないだろう。どんなことが書いてあるのか。まるで村上春樹のような「秀逸な比喩」を味わいながら、読みどころをスラスラと紹介する後編です。

〔→前編はこちら gendai.ismedia.jp/articles/-/54348

宗教から科学へ

サピエンス全史』の下巻はまず宗教の話から始まる。

宗教は、ときに対立を呼ぶが、基本的には人類社会の安定を強めてきた。

そして近年になって、宗教は科学に取って変わられることになった。宗教に中世のころほど熱狂的に支持なくなったのは、科学がそれに取ってかわったからだ。いわゆる科学革命である。

科学があれば、人類は宗教がなくても生きていけるのだ。

14章では、アポロ11号について触れている。

1969年7月20日、ニール・アームストロング船長は人類として初めて月面に降り立った。これは人類だけではなく、宇宙的偉業であるとハラリ博士はいう。

「それ以前の四〇億年という進化の歴史で、地球の大気圏すら脱出しえた生き物はなかった。まして、月に足跡(あるいは触手の跡)を残した者など皆無だった」〔下巻、p.56〕

このカッコ内の触手の跡、というところに感心した(前編冒頭に書きました)。

つまり、月に行く可能性があったのは哺乳類だけではなく、触手を持つ生物、たとえばタコやイソギンチャク(の進化した末裔)だったかもしれないということで、冗談のようでもあり、じつに科学的な視点だとも言える。あまりいままでの人生で(私は)持ったことのない視点だった(手塚治虫の漫画『火の鳥 未来編』で少し類似した世界を見たことがあるくらいだ)。

触手をもった生物が月に到達する可能性を考えるのは、なかなか楽しい。

博士がただのスペースオペラ好きで、でろんでろんの触手を持ったタコ型火星人を想像していただけかもしれないのだけれど、その連想も楽しい。

ユーモアへの強いこだわり

科学が宗教になりかわり、人間社会の規範となっていった理由も示されている。

宗教は世界の成り立ちを物語でしか説明できなかった。

ニュートンは(科学は)物質の運動を簡単な公式で示した。それを利用すれば、宇宙のあらゆる物体の動きを説明し、予想できた。その差にある。

宗教家は世界を公式で示さなかった。

「「人間に働く力は当人の精神の加速度を当人の身体の質量で割った値に等しい」などという計算は、ついぞしなかった」〔下巻、p.65p〕

この、ついぞしなかった公式を具体的に書いているところに、著者の凄さをわたしは感じる。

「人間の働く力」=「当人の精神の加速度」/「当人の身体の質量」

いや、こんな公式はないですからね。博士の無駄な文章に敬意を表して、存在したことがない「宗教が提唱する、人生のやりがい法則」(私の勝手な命名)を図式化したまでである。

宗教は公式で世界を説明しなかった、とだけ説明すれば、べつだん「なかった公式」をわざわざ示す必要はない。ここにはやはりサービス精神が横溢で、ちょっと笑かしてやろうという気持ちがあるようにおもう。

私もときにそういう「必要のない実例ならぬ虚例」をわざわざ書くことがあるが、これがおもったより労力がいるのだな。馬鹿馬鹿しい例を考え出すのは、ただの比喩を考えるより、もっと強く激しく創造力がいる。

本論を進めるよりも、もっと時間がかかったりする。

うまいジョークをおもいつけず、そのことで原稿がしばらく進まなくなっていると、自分でも何をやってるんだと馬鹿馬鹿しくなる。でも、いったん考えると決めたんだから引けなくなる。

そういう葛藤が何度かあったので、人さまが似たようなことをやっていると、強く共感してしまうのだ。

けっこう力を入れてるとおもう。好きな箇所です。

宗教に代わって、科学が世界を説明してくれることになった。科学は宗教の代わりの役目も担うことになったのだ。

そもそも、世界の成り立ちはわからないことがいっぱいである、という無知を自覚したのが科学が宗教を凌駕したポイントだそうだ。

あっさり言うと、宗教は知ったかぶりをするけど、科学は謙虚だったんで、多くの民に支持されたということになる。

博士の慧眼

15章では、世界を征服していく近代の帝国主義、その明るい面について書かれている。

新大陸(アメリカ大陸)は15世紀のコロンブスの発見以降、ヨーロッパ勢力が武装してどんどん乗り込んでいき、もともと住んでいた人たちを無視(ないしは排除)して自分たちの土地にしていった。

ただ、これはヨーロッパ勢力に限られていた。15世紀から一貫して新大陸はヨーロッパのものであった。

「アメリカに軍事目的で遠征隊を送ろうとした初めての非ヨーロッパ勢力は日本だ。一九四二年六月のことだった。このとき、日本の遠征隊はキスカ島とアッツ島という、アラスカ沖の二つの小さな島を占領し、その過程でアメリカ兵一〇人と犬一頭を捕らえた。だが日本人はそれ以上アメリカ本土に近くことはなかった」〔下巻、p.115〕

キスカとアッツがこの文脈で語られるのか、とここでも博士の慧眼に感心した。

たしかにその視点から見ると、歴史的な上陸である。

しかし昭和17年のどの日本国軍人も、また太平洋の戦争を振り返るどの日本人からも、さほど意味ある上陸だとはおもわれていない(いまでもたぶんそうである)。1942年の6月に日本軍が本当に占領したかったのはもっと南のミッドウエー島であり、その沖での海戦で大敗北を喫し、戦争の主導権を失ったからだ。

その上陸を、世界史的見地から見直す視点は、新鮮である。

でも素直に喜ぶ気持ちにならないから(軍事上あまり重要ではない上陸を称揚されているだけだから)、あきらかにシニカルでもある。シニカルさは洋風なジョークの特徴である。

資本主義のからくり

16章では、資本主義の不思議なからくりに触れる。

資本主義社会では、どんどん市場が拡大しつづける。これは一種のトリックであり、自然社会には存在しない。

「獲物となるヒツジの供給が無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら、愚かとしか言いようがない。それにもかかわらず、人類の経済は近代を通じて飛躍的な成長を遂げてきた」〔下巻、p.139〕

まあ、そういうことを想像する能天気なオオカミがいてもいいとはおもう。童話にならいそうだ。

資本主義社会の市場が拡大し続けるのは、「信用による投資」と「科学の新発見」によるものである。

自由市場主義を信奉する人たちは、すべては市場に任せろと主張する。

「禅の師が入門者に与えるのとまったく同じ助言を、彼らも政府に与えるーー「何もするな」と」〔下巻、p.156〕

東洋思想からの引用は、ヨーロッパの思想家らしいペダンチックさを感じますね(ハラル教授は厳密には西アジアのイスラエルの人ではあるが)。

こういう〝禅〟の使い方は、『スターウオーズ』のようで、ちょっと高揚する。

芸としての列挙

17章では産業革命の本質について触れている。

産業革命は、エネルギー源をどこまでも広げていく革命であり、また農業そのものの形態を変えた革命であった。

産業革命によって、エネルギーは無限ともおもえるように供給されるようになり(この本を読んでいると、石油資源の枯渇をなぜ心配しなければいけないのか、その理由がわからなくなる)、現在の生活は電気によって広く支えられている。電気は何に使われているのかが列挙される。

「私たちがパチンと指を鳴らすと、本を印刷し、服を縫い、野菜を新鮮に保ち、アイスクリームを凍ったまま貯蔵し、夕食を調理し、犯罪者を処刑し、思考を保存し、笑顔を記録し、夜を明るく照らし、無数のテレビ番組で楽しませてくれる」〔下巻、p.168〕

列挙という手法はとても冗談を入れやすい表現であり、逆にぜったいにギャグを入れなきゃいけないという強迫観念にかられる文章表現でもある(ま、私とか、それに類する物書きにとって、だけど)。

視点の振れ幅の広さが見せどころになる。

この場合は、野菜、アイス、夕食ときて、電気椅子に飛んで、パソコン(記録装置)、デジタルカメラと飛んだところが刺激的でした。

シニカルなジョーク

産業についての説明のなかで、第一次大戦中、空気からアンモニアを抽出する方法をドイツ人のハーパーが発見した話に触れている。そのため大戦中は国境が封鎖されていたドイツ国内でも爆弾の製作が可能になったのだ。

「この発見でハーバーは、一九一八年にノーベル賞を授与されたーー平和賞ではなく、化学賞を」〔下巻、p.172〕

いや、そりゃそうだろう、とおもうが、これはシニカルなジョークでしょう。ノーベル平和賞は、そういうタイプの人(あんたは平和よりどっちかってえと紛争を拡大したんじゃないのかといいたくなる人)に贈られてるでしょう、という意味が込められてるようにもおもう。

ちなみに科学者がノーベル平和賞を受賞したことは数例あるが、だいたいが研究内容ではなく平和運動を行ったことに対して贈られている。科学研究のそもの対して平和賞が贈られたのは1970年の農業学者ノーマン・ボーローグだけだとおもわれる(穀物の品種改良に貢献し、世界中での大量生産を成功させ、世界を食糧不足の危機から救った)。

現在の資本主義経済は、欲しくないものも買わせないと保たない。消費至上主義となっている。

「アメリカでは、本来、戦場で亡くなった将兵を追悼する厳粛な日だった戦没将兵追悼記念日にさえ、今や特別セールが行なわれる。ほとんどの人はこの日にショッピングに行くーーそれによって自由の擁護者たちの死は無駄ではなかったことを立証できるのかもしれないが」〔下巻、p.180〕

最後の部分がシニカルで、人によってはシニカルに笑うかもしれない、という部分。あたしゃくすっと笑ってしまった。

産業革命は何を解体したか

18章では市場経済によって社会が変わっていったさまが説かれる。

まず、自然と切り離された時間にしたがって人は動くようになっていった。

産業革命によって工場労働者が生まれ、生産のために時間を守ることが求められた。それが社会の規範となり、学校や病院でも時間が守られるようになり、それは社会に広まっていった。

「工場の勤務が夕方五時に終わるのであれば、近隣の酒場は五時二分前には店を開いておいたほうがいいからだ」〔下巻、p.186〕

いや、たしかにそうだけど、「二分前」って何だよそれ、とつっこみたくなるところがいい。もう少し余裕をもって店を開けたほうがいい、と言いたくなるからね。

産業革命はまた、それまでの強い家族のつながりを解体していった。

中世社会では、親は子どもを自由に扱っていた。いまは絶対にそんなことはできない。子供は親に絶対服従することはなくなった。

そのかわり子供の人生がうまくいかない原因はだいたい親のせいにされる。そのことについて裁判で争われたとすると、という不思議な説明がある。

「フロイトの学説が幅を利かせる法廷で親が無罪を勝ち取れる確率は、スターリン派による見せしめ裁判の被告人の場合と同じぐらい低いだろう」〔下巻、p.196〕

スターリン時代の見せしめ裁判を見たことはないが、さぞかし一方的な判決だっただろうなと、一瞬、関係のない風景が浮かんでくる。歴史的な刺激となり、強く印象づけられる。

これほど平和な時代はない!

現在が人類史上、どれほど平和な時代であるか、みんなあまりわかっていない、と博士の論理は展開する。

章タイトル(「国家と市場経済がもたらした世界平和」)を見ただけで私は全面的に賛意を示したくなった。

いまだに、局地的な不幸な状態が大きく繰り返し報道されるために、私たちは常に不安定な世界にいる感覚を持ってしまうが、何千年というスパンで見れば、これほど平和な時代はないという話である。

それを、百万年単位で人類の歴史を眺めるという視点から説かれると、とても雄大な説得力がある。

近隣の部族が真夜中に自分たちの村を殲滅させるとおびえることなく、ほとんどの人々は眠りについていると博士に言われて、そうか数千年前には人類のほとんどはそういう恐怖と共に夜を過ごしていたのか、とあらためて気づかされる。

これは核兵器の恐怖とはまったく別質の恐怖である。

そのあと続いて描かれるのがイングランド風景。

「日々、裕福なイギリス人が大勢、シャーウッドの森を抜けてノッティンガムからロンドンへ行くが、彼らは緑色の服をまとったロビン・フッドとその愉快な仲間たちに待ち伏せされて金品を奪われ、それが貧者に施されるのではないか(というよりむしろ、金品を奪って自分の懐に入れるために殺されてしまうのではないか)と恐れることはない」〔下巻、p.203〕

ロビン・フッドは中世(日本で言えば鎌倉時代くらい)のイングランドの英雄だか盗賊だかです。

ま、シャーウッドの森の治安はずいぶん違うということで、この文章のおかしみはやはり盗賊でしかないのに「愉快な仲間たち」と称されるところにあるとおもう。

それは博士の命名ではないが、この文脈で使われると、やはりおもしろい。盗まれる者にとっては不愉快な連中でしかないよな、とあらためて気がつく。

人は快を求め、不快を避ける

サピエンスの歴史を追ったこの書物は、19章に至って「文明は人間を幸福にしたのか」という壮大な問いを投げかけてくる。

疑問形になっているのだから、もちそんその答えは、あまり幸福にしてるとは言えない(のじゃないか)というものである(のだとおもう)、

世界宗教のなかでは仏教は、幸福について強く考えている、と指摘する。

その世界では、快い感情が幸福だと感じられ、不快を苦痛と考える。人は快を求め、不快を避ける存在だと説かれる。

「脚を掻くことであれ、椅子で少しもじもじすることであれ、世界大戦を行うことであれ、生涯のうちに何をしようと、私たちはただ快い感情を得ようとしているにすぎない」〔下巻、p.237〕

列挙と飛躍の面白さだ。

脚を掻く、椅子で「少し」もじもじする、という全人類に共通する感覚の次に、人類史上、1939年夏のアドルフ・ヒットラー以外に当該者が思い浮かばない「世界大戦を行う」が並ぶ。

あまりの飛躍に驚いている余裕さえなくしてしまう。

これもまたユーモアだろう。

人類の未来

20章が最終章である。ここでは近い未来が語られる。

遺伝子工学によって、人類はまったく別の段階へ入りつつある。この分野では、サピエンスの次の世代を生むかもしれない可能性を秘めている。雄大で怖い話である。

遺伝子工学の対象について。まだ恐れが強い。

「遺伝子工学で操作されている生物のほとんどは、植物や菌類、昆虫といった、政治的なロビー活動があまり行なわれない弱者たちだ。たとえば人間の消化管の中で共生的に生きている(そして、消化管から抜け出して致死的な感染を引き起こしたときにニュースになる)大腸菌の菌株は、生物燃料を生産するように遺伝子工学によって操作されている」〔下巻、p.246〕

政治的なロビー活動がおこなわれない、という表現で大腸菌が持ち出されるのが秀逸である。

大腸菌の立場に立って、良き菌的な生活を確保しようとロビー活動をおこなう大腸菌ネゴシエイターを想像するとつい笑ってしまう。また「消化管から抜け出し」以下の大腸菌の紹介文も、その本質を端的に突いて、はっとさせられる。

最後には人工知能がこの先、どう発展していくか、その可能性について考えている。

人類とまったく思考と行動を行う未来生物が誕生するかもしれない。しかしいまの時点ではどうなるかはわからない。

「というわけで、デジタル生物に訴えられたときの費用を補填する責任保険には、まだ加入しに行く必要はない」〔下巻、p.261〕

デジタル生物、つまり人工知能の進化によって誕生した未来生物に訴えられるかもしれないことを恐れて、保険に入る必要はいまのところない、と言うわけである。

読んでるほうとしては「そんなの入りたくても、まだ売られてないわ!」と突っ込むのが正しい(楽しい)態度である。

デジタル生物ではなく、遺伝子工学の先には現人類とはまったく別の「新サピエンス」が出現する可能性がある。その新サピエンスは、我々人類とはほぼ対話さえ不可能であろう、という不気味な予言がなされている。

ただ未来がどうなるかは、まだまったくわからないのだ、という古典SFのような結末でシメられている(古いほうのブレードランナーのラストを私は少しおもいだした。あくまで個人的で勝手な連想)。

私は何も『サピエンス全史』の内容を伝えたかったわけではない。

ユヴァル・ノア・ハラリ博士の文章の魅力、特にその文章のそのユーモラスな部分を伝えたかったばかりだ。

ユーモラスな部分をきちんとわかってもらうには、どういう文脈で語られているかを説明したほうがいいから、それぞれの内容を簡単に紹介した。だから、紹介したいギャグのない章は飛ばしている(博士のギャグの出現には波がある。冗談が言いやすいテーマと、あまり出にくいテーマがあるのだろう)。

この刺激的内容を知りたい人は、本書を丁寧にお読みになったほうがよろしい。

しかも文章そのものに魅力が満ちているから、飛ばして読むのはもったいない。しばしゆっくりハラリ博士のお話をお読みになるのがよかろうかとおもう。

はらり、はらりと読むべし『サピエンス全史』。

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