小説『孤独のグルメ』望郷篇――第10回「大食漢の混乱と“食べない男”の清潔」

小説『孤独のグルメ』望郷篇――第10回「大食漢の混乱と“食べない男”の清潔」

  • 日刊SPA!
  • 更新日:2018/10/12

久住昌之氏の原作と、谷口ジロー氏の静謐な作画の組み合わせで描かれるひとりめしの楽しみが共感を集め、現在累計80万部を突破した人気漫画『孤独のグルメ』。日刊SPA!では『孤独のグルメ 望郷篇』と題して、小説篇を連載中(隔週金曜日更新予定)。執筆は、『孤独のグルメ』の初代担当編集者である壹岐真也氏。漫画やドラマとはまた一味違う五郎の哀愁を味わってみてほしい。

◆【孤独のグルメ 望郷篇 第10回「大食漢の混乱と“食べない男”の清潔」 壹岐真也】

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写真/滝本淳助

世話になっている偉丈夫の達人の用件で、十年ほど前にニューヨークに出かけたときだった。

ご褒美、お疲れ的な意味合いのある出張で、用事を済ませてもまだ帰国まで丸一日半あった。

改築前のヤンキースタジアムで松井秀喜の試合を見て、A・ロッドのホームランの打球の勢いに驚愕したり(場外でジータ、A・ロッドと同等扱いに並べてマツイのユニフォームを売っていたのにはビックリした)、連れの人気俳優(現地の骨董屋で宣伝写真を撮ったりしたので、経費で彼はビジネスクラスに乗った)が、ソーホーでヘンリー・ダーガーの大きな画を二枚衝動買いするのに呆気にとられた。画廊の若い主人夫婦は感激して、高価なクリュグを抜いた。

それからオレたちは9・11の跡地を見物して、セントラルパーク内にあるレストランで昼食を摂った。メニューがよくわからないので、冷たいコンソメとウェルダンのフィレ・ステーキを注文した。

「ここはね。ゴローさん、レノンが息子のためにバーステー・パーティをひらいた店なんですよ」

と現地での通訳をたのんだベンジャミン伊藤さんがいった。

レストランは天井が高くてシャンデリアが飾ってあった。おしゃれなニューヨーカーが前世紀の欧州を気取って楽しむような、映画みたいな造作の店だった(あとから知ったのだが、実際、数本の映画のロケに使われたという)。

「あぁ、そういえば住んでたアパートも近いんだよね」と関心のないオレは応えた。

「ま、亡くなってずいぶんにもなるから観光名所になってるんだろうね」

「見てみたいな。そのアパート」

人気俳優がポツリとつぶやくと、ベンジャミンはすぐに反応した。

「じゃ食事を終えたら腹ごなしに周っていきましょう」

「なんというアパートだったっけ」と仕方なくオレが訊いた。

「ダコタアパート」

と人気俳優は、掴んでいたグリルハンバーガーを皿におろして、添え物のブロッコリーやフレンチポテト、ほうれん草のクリーム煮に目を落としたまま言った。

「さすがによくご存じですね」

とオレはお世辞をいって、ステーキにとりかかった。

ステーキはめちゃくちゃ旨かった。

「これ、もう一枚もらってもいいですかね」とオレは訊いた。

「もちろん。チェックはそちらがされるんだし」とベンジャミンが笑った。

「じゃぁ今度はレアで」

「井之頭さんはほんとうによく食べるね」と人気俳優が無表情にいった。

前夜も、オレたちはハーレムの店でステーキを食べたのだった。

後ろのテーブルにルー・リードとローリー・アンダーソンの夫婦がきていて、気づいた人気俳優が

「井之頭さん、写真撮りなよ」

とけしかけた。

「いやいや迷惑でショ」

とオレは一旦断ったが、我慢できず、先に店を出た二人を追いかけ玄関の外で

「may I take pictures of you?」と尋ねた。

ルー・リードはほんの一瞬、オレの顔を見つめ、そして

「No.」といった。

「I’m sorry」

そりゃそうだよな、とオレは納得した。

「ゆんべも、井之頭さんはステーキをお替りをしたね」と人気俳優。

「1ポンドのリブロースとサーロインの2枚、でしたね」とベンジャミン。

オレは堪らずに言挙げする。

「オレを、大食漢だと思わないでくださいよ」

あれ?という顔で人気俳優と通訳がこちらを見る。

--オレは毎日働いて働いて、腹をへらせてるだけなんです、とオレはつぶやく。

「井之頭君は、美食の好事家で、しかも嫌味のないところがよかったんだけどな」と人気俳優。

「そんなふうにしてオレを遠ざけないでくださいよ」

とオレはいう。

「でも井之頭君の食欲は時々尋常じゃないよ」

「ほんとに好きなのはどんなものなんですか」

「オレはバルザックでもロッシーニでもありませんよ。ただの、手のかかった粗食をおいしがる、輸入雑貨商の中年野郎です」

人気俳優が、へへへ、と低い笑いを漏らした。

オレは初めてのニューヨークで、あからさまにこんがらがっていた。

僕は何でも思ひ出します

僕は何でも思ひ出します

でも、わけて思ひ出すことは

わけても思ひ出すことは……

--いいえ、もうもう言へません

決して、それは、言はないでせう ※1

秋の薄暮の日。

オレは生まれ育った町に来ていた。打合せの都合だった。

JRの快速線が土日には停車しないこの町には二軒の中華屋、ラーメン屋がある。

いやいや。数えたらきっと五十軒くらいはあるのだろうけど。そのほとんどはオレとは縁のないお店の話だから。

ラーメンの聖地といわれる西東京の果てで、オレは育った。

関東大震災と先の大戦の空襲を避けて、東から越してきた勤め人家族が草藪、萱原(かやはら)、薄原(すすきはら)、樟(くぬぎ)、楢(なら)、欅(けやき)などの雑木林や、麦畑・田んぼと共生するようにささやかな生活を営みはじめた町だ。

幼稚園から区立の小・中学校までの同級生は、だいたいおんなじような暮らしぶりをしていた。父親が月給取りの会社勤めで、母親は専業主婦。祖父母と同居している者も少なくなかった。なぜか二、三歳上の兄貴か姉がいて、その彼らもおなじく同学年なのだった(親たちの家族計画、だったのだろうか)。

オレたちが小学生のころに、そうした同級生の二、三の家族で夏や秋に一緒に旅行にいったこともある。伊東や那須、一度長野のどこだかにもいったな。そのときは、ずっとこんな付き合いがつづいていくのだろう、とおもっていた。

中学にはいると、同じ家庭教師について週2回、駅の向こうまで自転車で数学を習いにかよった。センセイはR教大学の学生だったけど、少し変わった人で、オレたちにマイルス・デイヴィスやソニー・ロリンズのLPを次から次へと聞かしてくれた。あげくが、サンタナだった。「Ⅲ」が最高だと、勝手にレコードをかけて悦に入っていた。

オレたちは13か14歳。レベッカやマイケル・ジャクソンに耽っているころだった。

それから、みんな、別々の高校にすすんだ。

結局、あんまり会わなくなった。

Everybody had a hard year

Everybody had a good time

Everybody had a wet dream

Everybody saw the sunshine

誰もがつらかったし

誰もが楽しかった

誰もが夢精した

誰もが陽の照るのを見た

Oh Yeah Oh Yeah Oh Yeah

Oh Yeah Oh Yeah Oh Yeah ※2

布留(ふる)の店は八幡神社の通りを脇に抜けた静かな住宅街にある。

改築したのだろう、平屋だった店は三階建になっていた。

堂々としたりっぱな店構えだ。

のれんは、変わらず、日本蕎麦・中華そばと刷られている。

もともとは日本蕎麦だったのだけど、中途から中華そばもはじめた。

子供のころ、友だちということ抜きにして、ここの中華そばをしょっちゅう出前でとって食べていた。

陸橋傍の同じ名の店は、後々、めちゃくちゃ高名になった。

あすこも、よい店だ。小学校の五年か六年のとき、一人で出かけてカウンターにすわって、「わんたん」と注文したら、麺のない汁丼が出てきた。

そのとき初めて、「わんたん」は汁物で、麺を入れたのは「わんたん麺」というのだ、と知った。

背を曲げて落胆しているオレを見て、厨房の先代がだまって丼に麺を半分ほどさしてくれた。

あの先代ももうずいぶん前に亡くなった。

オレは店の扉を開けた。中は思ったより広々としている。

真ん中に磨いた石造りの大きな卓があって、壁沿いに四人掛けの卓がある。その奥が小上がりになっていて、四人掛けの卓が縦に二つ並んでいる。

厨房への白のれんから日焼けした顔をのぞかせた布留が

「よぉゴロー君、どしたい」

と威勢のいい挨拶で迎えてくれた。

「近所まできたからちょっと顔みていこうと思って。ここいらはぜんぜん変わらないね」

「でも人の出入りはけっこう多いよ」

四人がけのテーブルで世間話をしていると、黒いニットセーターの若い女性が一人で入ってきて、中央に置いた八人掛けのテーブルの隅に座った。

布留のオバサンがその脇によって何かささやいている。

「……ありがとうございます」女は小さく頭を下げて、

「じゃカレーライスください」

と低い声で注文した。事情がありそうだった。

間をおかず、初老の現場作業服の男と事務員服の女がはいってきて卓についた。

「大中華(おおちゅうか)」と男。

「わたしは普通のラーメンを」と女。

オレはなんとなくミラノかどこかの片隅のビストロにいる気になる。

こんな衒気のかけらもない住宅街の食堂で、カレーライスや中華そばだけ静かに食べるのっていいな。

東京に出てきた人はすぐに「何がおいしい?」「メニューをみせて」と言挙げする。

それがオレには「旨いのは何だ。証拠をみせろ」と脅しているように映る。

どうでもいいじゃないか。そんなこと。

オレは途中の駅地下で買ってきた手提げの紙袋を渡した。

「これ、オフクロサンさんと食べてよ」

「何」

「いや。最中だ。けっこういけるらしいよ」

ここに寄ろうときめたとき、ふと、布留が小学校のころ、この菓子だけにむしゃむしゃと、「うめえうめえ」と五個も十個も食いついているのをおもいだしたのだった。

「もうそんなに最中、食べないよ」と布留は笑った。

「で。ゴロー君、なにかたべていく?」と布留が訊く。

「オレにはカレーそばと天丼をちょうだい。味噌汁はいらないや」

「あいよ」

布留は昔馴染みと会うと、ラーメン屋の大将らしく殊更に声を大きく張る。そこにカレの誇りをかんじたりする。嬉しくなる。

オバサンが変わらぬ笑顔で

「そばに煮玉子いれましょうか」と訊く。

「おねがいします」

オバサンが嬉しそうにうなずいてくれる。

カレーそばに煮玉子は、三十年前にはなかった品目だ。

布留が、勤めていた製鉄会社を退いてこの店の三代目を継いでもう二十数年。

朝六時に起きて仕込みをして、十一時に店を開ける。それからは厨房かフロアで夜九時までで立ちづめのきつい仕事だ。

この男は、いったいどこからその体力を仕入れてるのだろう。というのは、よくゴルフ、テニス灼けして不可分ない筋肉をつけた様子とはことなる、食生活の秘密を、幼馴染のオレはよく知っているから。

「フルはさ、それだけ物を食べなくて、店の料理とかの味はどうしているの?」

「ま、一年にラーメン百杯も二百杯もたべるなんていう、さいきんのラーメン大将もいるけどね。ありゃまともな人間のすることじゃないよ」

「それにしても……」

オレが生涯で出会った極限の偏食家がこの布留だった。

とにかく、肉、魚はもちろん、野菜でも、固形の、形をとどめているものはほとんど口にしなかった。

こどものころ、一緒に旅行などして宿の朝食、夕食のおかずを何もかも口にしない布留に、オレたちは驚愕した。

「すみませんね。生卵を一つ頂戴」

と旅館の仲居さんに頼むオバサンは、当たり前の顔をしていた。そして茶碗のごはんに生卵を割り、布留に食べさせた。

学校の給食も、食パンと牛乳以外はぜんぶ周りの連中にあげていた。

それでいて布留は昔から体育が大の得意で、勝手に野球チームをつくってそこをしめていた。

前に聞いて、忘れられない布留の食生活。

朝は野菜ジュース。 バナナ一本。プラム二粒。ナッツとアーモンド4粒、ヨーグルト。冷たい日本茶数杯。

昼。日本蕎麦か中華蕎麦(具材なし。麺と汁のみ)。牛乳200㎖一本。

夜は、賄いだったり、残った蕎麦(麺のみ)だったり。後、湯豆腐や肉抜きの麻婆豆腐、茹でて生卵を絡めたパスタや卵焼きなど。200㎖牛乳一本。

店が休みの日はいつもの朝食と、昼夜兼用で牛乳2本……その後はビール(大量)。

この食事を、布留は一年三百六十五日、もう何十年も続けている。

凡庸なオレにはとても想像できない世界の住人だ。

その時、訊いたオレに答え、布留は、丁寧に注釈をくわえた。

*ラーメンスープと蕎麦のもり汁の味見は毎朝必ず、絶対におこなう。

*食べられる=好きなものーー卵焼き、大根と豆腐の味噌汁、チーズのゴルゴンゾーラ、シンプルな芋のコロッケ。豆腐も好きな部類。

*自分(布留)は食べ物と同じ位置づけで、牛乳、エスプレッソ、ビールを捉えている。

「物心ついた頃、記憶にあるのは幼稚園に入る頃だから4才か……自分は魚、肉、野菜は全滅だと気づいたんだ」

と、布留はいった。

「それから、ずっと、か」

「うん。いまも何も変わっていない」

「食べずによくそれだけ働けるね」

「働かざるもの食うべからず」

と、布留は低く笑いを漏らして

「それはこのことか、と死んでみせてもいいんだけれどね」

「おもしろくないね」

「うん。おもしろくない」

「オレの暮らしからはずいぶん遠い感じだな」

「ん、ま、ゴロー君の非日常が、ボクの日常、なのかな」

ごゆっくり、と布留はいって厨房にもどっていった。

オレは頭を振って、オバサンがはこんでくれた天丼とカレーそばにとりかかった。

独りで食べる時間を何よりも尊いと確信している自分だが、この男の食べないという性癖が、とても清潔なものにもおもえてしまった。

オレはまた、きょうも混乱した。

All the people we used to know

They’re an illusion to me now

Some are mathematicians

Some are carpenters’ wives

Don’t know how it all got started

I don’t know what they’re doin’ with their lives

But me, I’m still on the road

Headin’ for another joint

We always did feel the same

We just saw it from a different point of view

Tangled up in blue

おれたちの知っていたやつらはすべて

いまのおれたちにとってはまぼろしにすぎない

数学者もいた

大工の奥さんもいた

なんではじまったんだかぜんぜんわからん

やつらが自分たちのくらしをどうしてるかおれはしらん

とはいうものの おれはいまだに住所不定

ころがりこむところをさがしている

おれたちはいつもおなじ感じをしていたんだが

ちがった角度から見ていたんだな

ブルーにこんがらがって

※1『別離』中原中也

※2『I’ve got a feeling』THE BEATLES(片岡義男訳)

※3『ブルーにこんがらがって』ボブ・ディラン(片桐ユズル訳)

(続く)

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