なぜ日本人PKO隊員は殺されたのか...警察官「23年目の告白」

なぜ日本人PKO隊員は殺されたのか...警察官「23年目の告白」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2018/01/21
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2人の幼い子を持つ父親だった

ここに一枚の写真がある。

撮影日は、1993年5月5日。撮影場所は、カンボジア北西部の、タイ国境に近いニミット村。国連のヘリコプターの風圧で土埃舞う野戦病院のヘリポートで、オランダ軍兵士二人が、遺体を確認した後、木製の棺に納めた白いボディーバッグのチャックをしめている。

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オランダ軍事史研究所所蔵写真

その奥に、棺に背を向けた長身の日本人警察官が崩れ落ちそうになるのを兵士が抱きかかえている。彼の名前は、山崎裕人という。当時40歳の警察官僚(警視正)で、日本が始めて本格的に参加したPKO(国連平和維持活動)の現場・カンボジアに、74名の部下を率いて赴いた日本文民警察隊の隊長だった。

この前日、山崎は、首都プノンペンのUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)本部で、衝撃的な事件の報告を受け号泣していた。

1993年5月4日。日本はゴールデンウィークの真っ只中だった。東京・渋谷にあるNHKニュースセンターフロアでは、夜7時のニュース番組「ニュース7」を放送していた。番組の終了直前、午後7時24分、ニュースフロアが騒然となった。カンボジアからの一報だった。キャスターの桜井洋子が速報を読みあげる。

「今、入ってきたニュースです。カンボジア北西部アンピル地区で国連の選挙監視団が武装集団による一斉攻撃を受けまして、日本人の文民警察官1人が負傷したということです。日本の文民警察官1人が負傷したというニュース。今、入ってまいりました」

官邸、外務省、警察庁、国連、現地のカンボジア・・・・・・事実確認に追われる記者たち。10分後、負傷した警察官が死亡したとの続報が入ってきた。

亡くなったのは、UNTACに派遣され、現地で「文民警察官」として任務に当たっていた岡山県警の高田晴行警部補、33歳。2人の幼い子を持つ父親だった。

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中央に写るのが高田警部補

冒頭の写真の棺の中で、永久の眠りについていたのは高田警部補、その人だった。

<2016年8月13日に放送されたNHKスペシャル「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~」をご存じだろうか。日本が初めて本格的に参加したPKOの地・カンボジアで銃撃を受けて亡くなったある隊員について、膨大な資料をもとに調査し、死の真相に迫った番組で、第71回文化庁芸術祭賞テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞、第54回ギャラクシー賞テレビ部門大賞などを受賞した話題作だ。

放送から1年半、番組では描き切れなかった細部や証言について、同番組のディレクターが『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』にまとめ、話題になっている。

旗手ディレクターはなぜこの番組を作るに至ったのか。そして、なぜ隊員の死の真相を描いておきたいと思ったのか。すべてを明かした――。>

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「隊長失格」

番組の取材は、当時日本文民警察隊の隊長を務め、20数年が経った今も部下を失ったことを悔いている山崎の告白からはじまった。

「全員無事で帰国することが100点」――派遣前から、その言葉を唯一最大の課題としてきた隊長の山崎は、現地で詳細な日記をしたため、それをもとに一冊の報告文書をまとめていた。その報告文書を三部作り、一部は警察庁に委ね、残りの二部を自分自身と父親で保管していた。山崎は折に触れて上司に公開してもよいか、かけあっていた。しかし、警察庁在任中にその許可がおりることはなかった。

私たちにその文書が託されたのは、安保法制の議論で揺れていた戦後70年の夏を迎えた2015年8月下旬だった。山崎が60歳で警察官を退職してから3年が経過していた。文書の表紙には、平成5(1993)年7月19日の日付と、「総括報告(未定稿)」の標題、右上に赤文字で「厳秘」と記されていた。文書をめくると、すぐに飛び込んでくる四文字があった。

「隊長失格」――重い十字架を背負うことになったキャリア官僚・山崎の生々しい告白だった。文書には、〝現場指揮官〟としての自らの悔恨も率直に綴られていた。

「隊長として何一つ具体的な対策を示すことができず、物的な支援もできないまま最悪の事態を迎えてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない」

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けっして美談とはなりえない自らの記録。それでもいつか公にしなければならないと思い続け、山崎は生きてきたのである。封印されてきた歴史の扉を開けるために。

自動小銃による攻撃

1990年代初頭の日本は、東西冷戦後の世界情勢の中で国際貢献のあり方が問われていた。1991年1月に勃発した湾岸戦争では、日本は自衛隊派遣を行わず、総額130億ドル(1兆7000億円)の戦費などを負担した。一連の対応で、アメリカを中心とした国際社会から「小切手外交」という非難を浴びることになった。

日本政府に、その〝トラウマ〟を払拭する機会が訪れる。20年近く内戦が続いていたカンボジアも東西冷戦の終結とともに収束に向かい、国連PKOへ動き出す。1991年10月、パリで調印された和平協定によって、カンボジア政府、反政府勢力らが停戦に合意。

この国際紛争の解決のプロセスに、日本は戦後(第二次世界大戦後)初めて参加して一定の役割を果たす。パリ和平協定によって、カンボジアを国連の管理下に置き、民主国家としての基礎を築くために、公正な総選挙を行うことを決定した。

世界第二位の経済大国として、相応の国際貢献を世界に初めてアピールできる絶好の舞台がカンボジアだった。そのためにはPKOで日本は「顔の見える外交」をしなければならない。それが外務省、日本政府の本音だった。

そして国会に出されたのが、PKO協力法案だった。自衛隊の海外派遣は憲法違反ではないかと世論も真っ二つになり、議論が沸騰、紛糾する。衆参合わせて193時間に及んだ審議時間は、ほぼ自衛隊の派遣の是非に費やされた。すったもんだの末、法案は1992年6月に可決・成立し、自衛隊600名が初めて海を渡ることになった。

自衛隊の動向が衆目を集める大騒ぎの陰で、武器を携行せず丸腰でPKOの任務に従事する「文民警察官」も派遣されることとなった。急遽、全国の各都道府県警から集められたのが、山崎隊長以下75名の警察官。その多くが海外勤務の経験もないふつうの〝おまわりさん〟だった。

1992年10月、日本文民警察隊はカンボジアへ飛び立った。当初から異例づくめで、隊長の山崎と副隊長以外は、全員匿名での出発となった。PKO派遣への反対の声が大きい中、本人や家族の安全を守るという政府の方針に基づき隊員の名前はいっさい公表されなかったのだ。

そして任務地は、事前には分からず、カンボジアに到着して2日後にようやく国連から提示された。当初は1カ所に10名弱で配置されるという話だったが、実際は9つの州、29カ所に数名ずつ分散配置されることになる。

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任地には、国連による総選挙実施に反対し、停戦違反を繰り返していたポル・ポト派の影響力が強い危険な地域も含まれていた。自衛隊が事前に日本政府の度重なる国連への交渉の末、カンボジアでもっとも安全なタケオに駐屯することになったのとは対照的であった。

文民警察官に与えられた任務は、カンボジア警察への助言・指導・監視。期間は、9ヵ月。自衛隊とは異なり、水・食料・電力・住居などすべて自分たちで現地調達しなければならなかった。現地で試行錯誤しながら、日本文民警察隊75名は、カンボジアの大地にそれぞれ溶け込み、独自の国際貢献を模索していく。

しかし、総選挙が近づくにつれ、次第に各地で治安情勢は悪化する。年が明けて93年1月には、シェリムアプ州の日本人文民警察官の宿舎が砲弾や自動小銃による攻撃で全焼、跡形もなくなった(隊員5名は不在で難は逃れた)。

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跡形もなくなった日本人文民警察官の宿舎

そして日本帰国まで残り2ヵ月余りとなった1993年5月4日、事件が起きた。

カンボジア北西部タイ国境に近い辺境の地・アンピルに赴任していた日本の文民警察官5名らが、オランダ海兵隊の軍用車両先頭に車列を組んで移動中に「正体不明の武装勢力」に襲撃され、自動小銃やロケット砲によって4人が重軽傷を負い、岡山県警の高田晴行警部補が殺害された(オランダ海兵隊5名も重傷を負う)。

日本政府が派遣したPKO隊員の初めての犠牲者――事件の直後、報道は過熱した。皮肉にも文民警察官という存在に初めて世間の注目が集まった。日本政府は「事件の真相究明を行う」と強調した。しかし、「停戦合意が成立し、戦闘が停止」していたはずのPKO活動の現場で起きた事件の究明・検証は、その後行われることはなく、「犯人」が特定されることもなかった。

隊員たちには発言の機会が与えられることもないまま、事件はいつの間にか人々の記憶から薄れ、23年の月日が流れたのである。

衝撃の告白

報告文書を私たちに託した隊長の山崎は、部下の高田が命を落としたカンボジアでの活動が歴史に埋もれている、埋もれさせられていることに、強い憤りを感じていた。自らが語らなければ、歴史から葬り去られるという危機感からだった。そして私たちにこうも告げた。

「この記録も一断面にすぎないから、できるだけ多くの隊員たちに会って話を聞いてほしい」

私たちは、カンボジアに派遣された元隊員のもとに、可能なかぎり足を運んだ。隊員の3分の2は、現職の警察官であり、警察庁から正式な取材許可を得ることができなかったが、退職者を中心に22名の元隊員に話を聞くことができた。

誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県警の同僚はおろか、自身の家族にさえ話してこなかったからである。また隊員同士も互いに古傷に触れないよう、カンボジアでの経験を詳細に話すことはなかった。

みな、「墓場まで持っていく話」と思っていたという。しかし、隊員の気持ちも隊長の山崎と同じだった。「歴史に埋もれさせてはならない」そうした覚悟で重い口を開いてくれた。誰もが「高田の死」と向き合いながら、その後の警察人生を歩んでいた。

そして一人ひとりの隊員が克明な記録を密かに保管しており、その量と、その過酷な中身は私たちの想像をはるかに超えるものだった。現地でしたためていた日記、当時普及し始めた家庭用ビデオで隊員自らが撮影した50時間を越える未公開の映像――「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」「私は自動小銃を15ドルで買った」――その一つひとつの告白が、23年後にではなく、もっと早く、世に知らしむべき国連平和維持活動=PKOの現実を伝えていた。

多くの隊員たちが四半世紀もの間、記録を保管し続けてきた理由――隊長の山崎は、日本への帰国直前に部下の隊員全員に文書でこう告げていた。

「小官は、生の言葉で語らなければならない機会を極力控えようと考えています。しかし、他方で、小官に限らず皆さんにも言えることは、初めての警察分野における人的国際貢献に参加した者として、どんなことも記録に残しておくことがその責任であるということです。

(中略)出来るだけ感情を抑え、自分のしてきたこと、人のしてきたことを客観的に文字に残すことが、今後の日本の国際貢献の役に立つということだろうと思います」

山崎自身、帰国後、混乱の中で公に真相を語ることは難しいと予想していた。それでも隊員ひとりひとりが記録に残しておいてほしい。そしていつかその記録をもとに真相を語れる日が来ることを期する。山崎はそう隊員たちに言い残していたのである。

忘れられた土地

なぜ悲劇は起きたのか。

私たちができたことは、可能な限り当時の外交文書や史料を集め、隊員たちの証言や記録を一つ一つ積み重ね、同時に派遣決定に関わった政府関係者や国連の幹部、襲撃された現場にいたオランダ海兵隊員やスウェーデン文民警察官など各国の隊員、UNTACに敵対していたポル・ポト派を筆頭にカンボジアの人々の証言を聞き出し、点を線にし、線を面にしていく作業だった。

2016年6月。私たちはカンボジアの事件現場を訪ねた。殉職した高田警部補とともに武装勢力に襲撃された神奈川県警の元警部・川野辺寛に同行しての取材だった。

川野辺は高田含めて部下8人を率いる現地の班長だった。今でも襲撃事件を夢に見て、突然夜中に飛び起きてしまうこと、夏の花火の音で、あの光景のフラッシュバックが起きてしまうこと・・・・・・。

「あのとき襲撃され高田が命を落としたのは、自分が指揮官とした間違った判断をしたためだったのではないか」と、これまでずっと思い悩み、自問自答を繰り返していた。川野辺はカンボジアを再訪する際の日記にこう綴っていた。

「人々からは二年もたつと、そんな事件があったのかと言われる。

しかし自分たちにとっては23年たっても、昨日の出来事である。

消し去ってしまいたい忌まわしい記憶なのに、少しも色あせずに生き続けてきた――」

川野辺を乗せた車は、首都・プノンペンから北西に400キロ離れたタイ国境に近い村アンピルに向かっていた。鬱蒼としたジャングル、赤茶けた土の未舗装の道、粗末な木造のバラック……あのときと変わらない風景が広がっていた。経済成長著しいカンボジアにあって、アンピルは〝忘れられた土地〟だった。まるで日本の〝忘れられたPKO部隊〟である川野辺ら75人の文民警察官のように――。

ついに再開した二人

川野辺には一人の男をどうしても捜し出さなければならない切実な理由があった。

23年もの間、誰も検証しようとしなかったカンボジアPKOの真相――かつての部下・高田が誰によって殺されたのか、それだけでもいつか明らかにしたいと思い続けて生きてきたのである。「事件はあなたの犯行でないのか」その問いを元警察官として突きつけるために。

その男とは、川野辺らが襲撃された現場アンピルのポル・ポト派司令官だったニック・ボン准将。反政府の急先鋒だったポル・ポト派のゲリラ活動がカンボジア各地で活発になっていく中で、川野邉は、隊員たちの身の安全と地域の治安をはかるために、独自にニック・ボンと折衝を重ねていたのだが、悲劇は起きた。

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ニック・ボン氏と写る川野辺氏

そしてようやく消息をつかんで、ニック・ボンと23年ぶりの〝再会〟することになったとき、憎しみを抑えられなくなったのか、川野邉の唇は震えていた。

だが、その後、二人が邂逅を果たし再び別れるとき、川野邉もニック・ボンも、心境に意外な変化が生じる――。

23年が経ってもなお

戦後71年の夏を迎えた2016年8月。NHKでは毎年8月に戦争や平和を考える番組を集中編成することになっている。

私たち制作チームは取材結果をもとに、8月13日にNHKスペシャル「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~」(49分)を放送。同年11月にBS1スペシャル「PKO 23年目の告白 前編・そして75人は海を渡った/後編・そこは〝戦場〟だった」(100分)を放送した。

そのころ、自衛隊のPKO部隊が派遣されていた南スーダンでは、同隊の宿営地近くで激しい戦闘が起き、事態は緊迫の度を深めていた時期でもあった。番組は視聴者の方々からの反響も大きく、いくつかの賞をいただいた。

ただ、制作者としては、心残りがあった。テレビドキュメンタリーという分野では往々にして起こることだが、放送時間の制約上、取材で得た膨大な証言や事実を削除せざるをえなかったのだ。映像と文字との違いはあるが、49分のNHKスペシャル(ナレーション部分とインタビュー)を単純に字数にすると、実は1万字にも満たない。400字詰めの原稿用紙にして25枚分ほどである。

今回、その何十倍もの分量を遺す貴重な機会をいただき、ノンフィクション『告白』としてまとめることができた。突然召集され、カンボジアに赴いた75名の隊員たち、そして番組では紹介できなかった事件の関係者、重傷を負ったオランダ海兵隊員や、事件現場に丸腰で救援に駆け付けたスウェーデン文民警察官らのその後の人生をできるだけ詳細に綴っておきたかった。

今後、日本が国際社会の中でどのような形で平和構築にかかわっていけばいいのか、その解を得るには、今の世界情勢はあまりにも複雑である。一人の死から23年もの間、沈黙せざるをえなかった警察官たちの「告白」。取材を始めて2年がすぎた今なお、私たちはその「告白」の重さに立ちすくんだままのような気がしている。

旗手啓介(はたて・けいすけ)1979年神奈川県生まれ。2002年NHK入局。ディレクターとして福岡局、報道局社会番組部、大型企画開発センターを経て、2015年から大阪局報道部所属

1月17日に発売された『告白』

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