宇野常寛氏語る、虚構の可能性とオタク - 宮崎駿監督から『ポケモンGO』まで

宇野常寛氏語る、虚構の可能性とオタク - 宮崎駿監督から『ポケモンGO』まで

  • マイナビニュース
  • 更新日:2017/12/07
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●「肥大した母性、矮小な父性」と2016年のヒット映画

「もうたくさんだ」「いまのこの国に本当の意味で語るに値する現実は一つも存在しない」。批評家・宇野常寛氏は、5冊目となる最新の単著『母性のディストピア』(集英社)の序章で痛切にそう述べている。日本テレビ系の朝の情報番組『スッキリ』にもコメンテーターとして出演し、実際の社会問題を前に激論を交わした経験をもってなお「この国の現実に想像力の必要な仕事は一つもない」と。

宇野氏は2008年、主に2000年代に登場した漫画、アニメ、ゲーム、テレビドラマなどで表出した"新たな物語"を分析した『ゼロ年代の想像力』(早川書房)で商業誌デビュー。同著でジャン=フランソワ・リオタールの指摘した(国家やイデオロギーに代表されるような)「大きな物語」が瓦解した後、「小さな物語」が乱立するようなポストモダン状況が進行した国として日本を捉えていた。2011年には小説家・村上春樹や『仮面ライダー』シリーズなどの動きを見ながら、東日本大震災以降の日本文化を批評し現代を「拡張現実の時代」と定義した。

その宇野氏が『母性のディストピア』では、改めて虚構の物語の持つ可能性について分析。主な評論の対象となったのは宮崎駿氏、富野由悠季氏、押井守氏らアニメ映画監督の作品群だが、『君の名は。』や『聲の形』『シン・ゴジラ』『ポケモンGO』といった2016年に公開(発表)された映画、ゲームについても大きく取り上げられている。また宇野氏は同著で「『政治』と『文学』から『市場』と『ゲーム』へ」という新たなテーゼを設定。一見すると難しそうだが、ここでの政治とはパブリック(社会など大きな目線)、文学とはプライベート(個人など小さな目線)の領域と捉えれば分かりやすいかと思われる。その上で"語るべき現実を失った日本"を前に、彼はどのように種々の作品群を観て、どういった考えに至ったのか、より詳しく聞いた。

○戦後日本の精神史を貫く「肥大した母性と矮小な父性の結託構造」

――本書のタイトルにもなっている「母性のディストピア」という言葉が、初めて宇野さんの評論に出てきたのは、いつ頃でしょうか。

『ゼロ年代の想像力』の後半、高橋留美子さんとその間接的な影響下にある作品群について論じた第十章だと思います。だから本当、デビュー作の頃から温めていたモチーフではあるんですよ。

――『ゼロ年代の想像力』の章から今回こうして単行本になった過程で、どのような変化がありましたか。

『ゼロ年代の想像力』と比べると今回は、扱っている年代のスパンも5倍以上になっていまして……平たく言うと、より大きな問題意識に接続したということですね。父になれないことで自分を断念しているのではなく、それを許容してくれる女性のスカートの中で擬似的に父になっているに過ぎないーーこれは『ゼロ年代の想像力』、から『リトル・ピープルの時代』の村上春樹論に発展させた論点なのです。これは実は特定の作家やサブカルチャーの問題というよりは戦後日本の精神史そのものを貫くとても大きな問題ではないかと僕は考えているんです。本書では「肥大した母性と矮小な父性との結託構造」と表現していますよね。

○宮崎駿監督作品に見られる"飛ぶ"表象の裏側

――その「肥大した母性、矮小な父性」というのを今一度、分かりやすく伝えていただけますか。

それに関しては、宮崎監督について論じている第3部が一番分かりやすいのではないでしょうか。宮崎監督は、『天空の城ラピュタ』(1986年)や『風立ちぬ』(2013年)を観ればよく分かるように、"飛ぶ"ということを男性的なロマンティシズムの象徴としてずっと描いてきた作家なんです。ただ、そういった自己完結的なロマンティシズムを承認してくれる母的な存在があってこそ、彼らは飛べるんですね。例えばジーナに見守られていて飛べるポルコ、ソフィーに見守られていて飛べるハウル。こういった表現を繰り返しています。

アメリカの影の下、戦後日本の男性は、近代的な市民としての「父」というものに対して憧れを持っているものの、実際にはそれになることができないという、相当屈折した自意識を持っている訳ですね。

端的に言えば矮小な父性というのはネトウヨ、というか左右のイデオロギー回帰ですね。そして肥大した母性というのは戦後民主主義ですね。これは冷戦終結とグローバル化で解体されるはずだったのだけど、実際はそうはならず、インターネットの影響でよりタチの悪いものに変化している。

――その「父」になりたいというのは、物事に対して主観的に判断や決定をし、それと同時に責任をも引き受けるような存在でありたいという理解で大丈夫でしょうか。

それが社会的にどんな価値を持つかは度外視していて、「私にとってあなたは必要ですよ」という承認や無条件の肯定をくれる母的なものの中で、ですね。その母からの肯定によって社会的な承認を代替していくような、自己完結的なロマンティシズムがある。それが「矮小な父性と肥大した母性の結託」です。なので、矮小な父性は母的な存在のスカートの中でさも自分が父になったかのような錯覚を享受して自己完結していき、母の方は自分を満たすことができる箱庭を作り上げて閉鎖的に安定していく。それが戦後核家族的な母性であり、吉本隆明的な対幻想に支えられた「大衆の現像」であり、テレビポピュリズム的な「下からの全体主義」の温床であり、そして高橋留美子的な消費社会の終わりなき日常に戦略的に自閉する態度なのですが、平和で安定したその世界――ニアリーイコール戦後日本社会のそのもの――の背景には実は強力な排除の論理によって支えられていて、無数の人柱を必要としているということを告発したのが押井監督だったということなんですよ。それが端的に表れているのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)ですね。

――一方で先ほど、宮崎監督作品の"飛ぶ"表象については「戦後日本の男性性に見られる屈折した自意識」と仰っていましたよね。

本書では、宮崎監督は戦後日本の自意識そのものだという風に書いています。なので、宮崎監督の陥穽は、そのまま戦後日本の精神史の陥穽であって、だからこそ、と言える強い大衆性だと思うんですよ。宮崎監督についてしっかり論じておくことが、やはり戦後の精神史の総括という側面においては必要だったと思っています。

○庵野秀明監督は「『政治と文学』の断絶に最も敏感」

――ところで本書では、3人の監督以外のアニメ作品も取り上げられていて、2016年の映画やゲームが一つのキータームになっていましたよね。その内の1作『君の名は。』の分析に、なるほどと思わせられました。同作は「政治と文学」の「文学」だけということで、落下する彗星が震災のメタファーで、しかしそれは「君と僕の物語」の味付けとしてしか機能していない。これは震災を遠くの場所で終わった悲劇として忘れて、普通の日常に戻りたがっている人たちの欲求をついているのでは、という。

実際そうですよね。その辺りは映画プロデューサー・川村元気氏の天才的な嗅覚なんじゃないですか。やっぱり日本人が無意識に抱えている震災のイメージや東北への後ろめたさを割り切れないものとしてじゃなく、割り切れるものに昇華してしまいたい……そういった願望に上手くアプローチしていますよね。本当、悪い人だなぁと思います。褒め言葉として、ですよ。本当に、皮肉とかじゃなくて。

――他方、私は『シン・ゴジラ』も鑑賞したのですが、非常に難しくて、どこに焦点を置いて観れば良いのか、とても混乱してしまったんです。

物凄くハイブリッドで複雑な映画ですよね。例えばですが、あの作品は結構簡単に政権擁護的にも政権批判的にも観られると思うんですよ。もちろん、そんな単純ではなくて、映画を俯瞰して観ると、根底に描かれているものはある種の露悪性だと思うんですよね。

――露悪性ですか。

うん、そうだと思いますよ。全て計算して作った映画というよりは、庵野秀明監督はああいったようにしか作れなかったと思うんですよね。『新世紀エヴァンゲリオン』(『エヴァ』/1995~1996年)が世界の問題を自意識の問題に矮小化する……セカイ系と呼ばれるものの原型となったように、『シン・ゴジラ』は逆に「政治と文学」の「文学」の方は大きく後退してしまっていて、「政治」の話しかなくなっている。言ってしまえば、本当に『エヴァ』の裏返しなんですよね。でも、あのような形でしか今の日本――東日本大震災以降の状況にアプローチできないというのは、庵野監督が体現する、日本の物語的な想像力のある種の限界をよく表してしまっていると僕は思います。

――なるほど。

まだ『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の頃の押井監督までは、かろうじてアイロニックな形で接続されていた「政治と文学」が、『エヴァ』以降……庵野監督以降、ほぼ断絶してしまっている。そして彼は形を変えず、断絶を描くことしか今の所できていない。ただ断絶に最も敏感な作家であるがゆえに、僕は評価するという立場です。

○現実を拡張する虚構としての聖地巡礼、『ポケモンGO』

――本書では2016年のアニメ映画として『聲の形』も論じられていました。物語やキャラクター構成を、京都アニメーションが得意とするところの「終わらない日常」のイメージを指摘しながら分析されていて、同時に少し聖地巡礼についても触れられていましたよね。一方、『ポケモンGO』について論じた部分ではゲームを通じた「拡張現実の時代」の現れの一つと分析されています。聖地巡礼も「拡張現実の時代」の一系統と言えそうですね。

もちろんです。『リトル・ピープルの時代』の第3章で、僕は中沢新一氏を引用しながら初代『ポケットモンスター』シリーズ(1996年)と聖地巡礼を並べて論じていて、今の我々の「拡張現実の時代」の虚構感が、こういった現象で表れているという議論をしているんですよね。当時は「なんだこれ!」と誰からも理解されなかったんですけど、刊行から6年経って、今読むと物凄い説得力があると思うんですよ(笑)。自分で言うのもなんですけど。「仮想現実から拡張現実へ」というテーゼが、何も情報技術のトレンドの話だけでなく、我々の虚構感も変化させているということです。つまり革命の代替物としての架空戦記のようなもう一つの世界を要求するのではなく、実際に我々が日常生活を営んでいるこの空間を拡張することの方が虚構の機能として求められ始めている。その具体的な欲望の表れとして聖地巡礼があり、そして『ポケモンGO』があるという風に僕は考えています。

――なるほど。ただ私は『ポケモンGO』をダウンロードはしましたが、Googleのアカウントを持っていないということで断念してしまいました。Googleアカウントを持っているのが当たり前という情報環境に戸惑ってしまったのかも知れません。

もちろん一極集中し過ぎない方が良いに決まっています。ただそれよりかは、Googleが象徴するカリフォルニアン・イデオロギー*が持っているものに対して、我々がどう批判的にアプローチしていくのかを考えることの方が大事だと思うんですよ。それについて僕は文化左翼的な抵抗運動などとは少し違うと思っていて、かつてのモータリゼーションに対しての日本車的なものが良いと捉えています。アメリカ発の文化というものは全面的に受け入れた上で、批判的な2次創作として日本車というものを発明することで打ち返していったわけですよね。やっぱり我々も同じようなことをGoogle的なものに対して行っていくべきだと思うんですよ。

*カリフォルニアン・イデオロギー:サイバースペースとグローバル資本主義とを結びつけ、マーケット(市場)から世の中を変えようとする一種のユートピア思想。もともとアメリカ大陸の西の果てであるカリフォルニアはフロンティアを求めて開拓者たちが目指した地であり、60年代にはヒッピーたちによる文化運動サマー・オブ・ラブが起こるなど反権力的な面が強い場所でもある。カリフォルニアン・イデオロギーを代表する人物として宇野氏は本書でAppleの創業者の1人スティーブ・ジョブズを挙げている。

●総合知識人としてのオタク像、21世紀の主役となる「中間的なもの」

○検索可能な世界を歩かせるためのゲーム『ポケモンGO』

――ところで『ポケモンGO』は今でもなさっているのですか。

いや、数日で飽きて止めていて、もう全然やってないです。でも良いんですよ。ジョン・ハンケ*もインタビューで「これは人を外に連れ出すためのツールである」と言っていますから。この情報化され検索可能になった時空間は、ただそこを歩くだけ、外に出るだけで既に充分な学習機会を人々に与えるもの。検索可能になったこの世界は、それ自体が豊かな情報源――情報の海である、というのが彼らの立場であり、そこを歩かせるだけで良いんです。その人を外に連れ出すゲーミフィケーションが『Ingress』(2013年)や『ポケモンGO』に過ぎないので、それらをきっかけに僕も散歩が趣味になりましたし。これこそジョン・ハンケの狙いです。『ポケモンGO』に対してゲームとしてつまらないとか言っている人は馬鹿ですよ。全く別のところに狙いがあって、ゲーム自体は蝶番に過ぎないのですから。

*ジョン・ハンケ:『Ingress』や『ポケモンGO』といったゲームアプリをリリースしてきたナイアンティック社のCEOでGoogle幹部ともなっている開発者。

○オタクは総合性だった

――なるほど。本書では、テクノポップやニューウェーブなどに代表されるサブカルチャーの「80年安保」から、「新人類(後の「サブカル」)的なもの」と共に分化したものとして、ニュータイプとしてのオタクたちがあると分析されていて、そのオタクの方々が持ち得たであろう可能性についても言及されていますよね。中心に都市的音楽分化がある「新人類的なもの」の方は分かるのですが、ニュータイプのオタクというのはどのようなイメージになるのでしょうか。

イメージし辛いのは(私たちの)世代的な感覚の断絶でしょうね。80年代末から90年代の前半まで若いオタクは、もっと総合知識人的な存在だったんですよね。基本的にはSFやアニメが中核にあってミリタリ、モータースポーツ、模型とか、そういった新興の文化産業を中心に、何かこれまでとは違う若者の教養体系のようなものを彼らは彼らで作ろうとしていたんですよ。他にも、例えばアメリカのボードゲームを輸入し自分たちで翻訳してやっていた人たちもいました。パソコン通信の時代、彼らは日本でいち早くコンピューターカルチャーの洗礼を受けている層でもあったんですよね。あの時期、日本の都市文化の中には、そういった新しい総合知識人としての日本人のビジョンとしてのオタク像の萌芽があったんです。ただ、それは育たなかった。

――なぜですか。

一言で言うと、やはり大衆化の中で非常に動物化*していったんでしょうね。僕は最近、猪子寿之さんと仕事をしたり落合陽一くんの本の編集をしたりしていますが、本書を出すまで「宇野さんはサブカルチャーに興味がなくなって、テクノロジーやビジネスの方向に関心がいってしまったんですね」という風によく言われていました。でもそんなことはなくて、変な話なんですけど、オタクだからこそ……例えば今だったらガンダムが好きだからこそ、3Dプリンターにも興味があるんですよね。でもそれを今の若いオタクたちは多分、分からないんだと思うんですよ。

*動物化:批評家で哲学者の東浩紀が著書『動物化するポストモダン』(講談社/2001年)において、 アレクサンドル・コジェーヴの思想を踏まえて提唱した概念。宇野氏は『ゼロ年代の想像力』で、「大きな物語」が消失したポストモダンの現代において、人々が静的に存在するデータベースから、欲するままに情報を読み込んで「小さな物語」を生成するようになり、他者を回避しがちになる状態を示した。

――うーむ……なるほど。

20、30年前は、ガンダムが好きでグッズも好きだったら、3Dプリンターも当然好きだろうと皆思ったハズですよ。富野監督が好きなら当然、落合くんも好きだろうと思っていたハズ。でも今だったら比喩的に言うと「富野監督が好きなのに、落合氏も応援しているんですか?」と言われてしまう。これが30年の間にオタクが失ったものなんですよ。やっぱりオタクというのは、今は専門性ですけど、昔は総合性のことだったんですよ。この感覚が多分、平成生まれの方には分からないことだと思います。平成が始まった頃くらいのオタクは、それこそニュータイプ……新しいタイプの総合知識人のビジョンだったんですよ。

○情報の束として世界をみる視点

――なるほど。テクノポップやニューウェーブの方は、当時を「いわゆるメジャーカルチャーとアングラカルチャーとが未分化で、カオティックで面白かった」と振り返るような人たちの感覚が、当時の音楽雑誌やカルチャー誌などを読み返すと確かにそうだなぁとか、こうだったんだろうなぁと分かることもあります。ニュータイプの方はそのようなことはあるのでしょうか。

こっちの方が新興のジャンルだったんで、あんまりハッキリと文献には残っていないんですけど、80年代後半や90年代前半のアニメ雑誌とか、あとやっぱり初期の『月刊OUT』(みのり書房)を見るとその感覚が分かると思いますね。『エヴァ』以前……第2次アニメブームが終わった80年代後半から90年代前半はあんまりアニメが盛り上がってなかったんですよね。その間の昔の『月刊ニュータイプ』(角川書店)のようなアニメ雑誌を読んでみると、相対的にアニメの記事がすごく少ないんですよ。その代わり、先に挙げたような色んなジャンルのテーマが取り扱われていました。角川のお家騒動前後、角川春樹氏から角川歴彦氏に移る前後の角川文化が体現していたように、オタクというものが新しい総合性だった一瞬があったんですよ。僕はその頃の空気をギリギリ知っている世代なんですよね。

――その当時、宇野さんはお幾つくらいになるんでしょう。

中学生くらいです。高校に上がった頃には動物化が始まっていて……だんだんオタクに失望していく10代後半でした(苦笑)。

――(笑)。

今では、オタクというのはネット右翼の温床みたいに思われているかも知れないですけど、当時は、やっぱり基本的にはフューチャリストの集まりだったですよね。テクノロジーと親和性が高く、その一方で70年代のディストピアSFも経由してきていたから、批判的に関心を向けていたんですよね。

――なるほど。物語よりも、もっと雑多なデータ群から整理することができていたという。

当時のオタクたちは、コンピューターカルチャーというものが、この先、世の中を大きく変えていくと最も早くわかっている訳です。だからSFやアニメといった何か新興の物語文化とコンピューターカルチャーを中心に置きながら、自分たち自身の教養体系を見出そうとしていた人々なんですよね。加えて80年代や90年代の話なんで、何だかんだ言ってマルクス主義やベビーブーマーへの反発、つまりイデオロギーに対しての反発が強いんですよ。

――それは分かるような気がします。

その頃にオタクたちは、新人類のように「いや別に政治の話はダサくてできない」とは言わなかったけれど、「昔のように左翼ではなく、リアルポリティックスでいこう」という姿勢を示していた。だから物語やイデオロギーで世の中を見るのではなくて、情報の束として見ようという姿勢と親和性が高かったんですよ。彼らのそういった感性は、後の平成の改革勢力と繋がっていく新保守的な発想とすごい親和性が高かったんですよね。もちろんどちらも失敗したプロジェクトで、僕も手放しで肯定する気は全くないですけどね。

○都市や企業は「一人一人がより参加しやすい」

――ところで本書終盤では「『政治と文学』から『市場とゲーム』へ」というテーゼも示されていて、とても納得したのですが、一般的な市井の人はどういった形でアプローチしていけば良いのでしょう。

僕はむしろ、市井の人間の方がしやすいと思います。20世紀に比べると21世紀は、政治的なアプローチは有効じゃなくなっていっていると思うんですよ。そもそもカリフォルニアン・イデオロギー自体が、ローカルな国家ではなくグローバルな市場から世の中を変えていこうという運動ですよね。だから例えば、デモや選挙で世の中は変わらないと言っているような人たちは、政治的なアプローチだけが世の中を変えることだと思い過ぎていると思うんです。もちろん、それはすごく大事なことなんだけど、そうでない回路もすごく力をつけてきていますよね。例えば今、福岡で起こっていることを考えてみれば良いと思います。福岡は、地政学的にアジアに近いことを利用して非常に発展していて、非常に閉鎖的な日本の中で、都市単位で勝手に開いていっているんですよ。でも僕は、こここそがグローバル化の本質だと思っていて、国家は本質的に閉じているものだと思うんですよね。もともとバラバラのものを一つに集めるための共同幻想なので。対して都市は要するにハブで、そこに人がたまたま住むようになったものなので、定義的に開いているわけです。やはりグローバル化に対して親和性が高いのは国家ではなくて都市ですよね。

――なるほど。

でも国家より都市の方が人はコミットしやすい訳ですよ。同じようなことが企業にも言える訳ですよね。なので、家族よりも大きくて国家よりも小さい中間的なのものが、21世紀、グローバル化時代の主役になっていくと思っている。国家というものは、もう数千万単位、一千万単位の人間の多様な規模のものが多いし、もう多様な価値観を持っている人間の利害を調整するプラットフォームにしかならないと思っているんですよ。しかし都市や企業というのはまだ規模的に自分たちの価値観というのを語り得るし、離脱可能性が高いじゃないですか。なので、21世紀の主役というのは、そういった中間のものになっていくので、それこそ市民の一人一人がプレイヤーとしてより参加しやすい環境になっていくと僕は考えています。

■プロフィール宇野常寛評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポップカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師など、その活動は多岐にわたる。

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