西郷隆盛と島津久光、不仲の理由

西郷隆盛と島津久光、不仲の理由

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  • 更新日:2017/11/25

武官であり、一農夫。謎多きカリスマ西郷隆盛について、NHK大河ドラマ『西郷どん』の時代考証を担当する原口泉さんが実像を語る。(雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より)。

◆人間に対する深い愛情が西郷の人格を形成する

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は、明治維新でとくに大きな功績を遺したことから「維新三傑」と呼ばれている。中でも西郷は維新回天時に司令官として、また初期明治政府の中心人物として重要な案件の処理に尽力した。だが最期は逆賊の汚名を着せられてしまう。後にはその功績が認められ、上野や鹿児島に銅像が建てられ、誰もが知る偉人となった。時代とともに評価が浮沈した人物だ。

西郷は薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛の長男として生まれた。12歳の頃、藩校造士館(ぞうしかん)からの帰路、対立していた他の郷中(ごうじゅう)の男から、鞘に差したままの刀で叩かれた。すると勢いで鞘が割れてしまい右腕を斬られ、刀を振れなくなった。以来、西郷は剣術修行を断念して学問に没頭したのである。

18歳になると郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という役職に就き、以後10年間も務めている。郡方は今で言う地方の農政課、書役はその書記で、助は見習いのこと。この役目を通じて、西郷は貧しい農民の暮らしぶりを目の当たりにしている。

「西郷ほど農政を熟知した者はいなかったでしょう。それが江戸で生まれ育ち、薩摩藩の実情に疎かった島津斉彬(なりあきら)に見出されるきっかけとなったのは間違いありません」と、大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を務める鹿児島大学名誉教授の原口泉さん。

斉彬が薩摩藩主に就任した際、藩士らに意見書を求めた。これは有能な人材の発掘、育成につなげることが目的であった。西郷はこの時、農政に関する建白書を提出する。それが認められ、斉彬の側近くに仕える異例の大抜擢を受けた。そして開明派の斉彬から直接教えを受けただけでなく、その使いとして当時の知識人たちと交流を持つようになる。

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「西郷は幼児の頃から人間に対して異常なほど愛情の深い人でした。だからこそ、自分を認めてくれた斉彬を深く敬愛し、その先進的な考えに傾倒していったのです」。
西郷のそうした性格が斉彬の死後に殉死を考えたことや、将軍後継問題を通じて信頼し合っていた僧の月照(げっしょう)と心中を図るといった行動をとらせている。斉彬に傾倒した反面、その死後に薩摩藩の実権を握った久光とは徹底して反りが合わなかった。斉彬の成し得なかった幕府政治の改革に乗り出した久光が、西郷にはどうしても器量不足に見えたのである。

「何でも自分で決める“独決”のきらいがある西郷を、使いこなせるのは自分だけと、斉彬は言っていました。西郷のその気質も久光と合わなかった一因でしょう。その結果が2度の遠島でした」。

『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より構成〉

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