もしも1945年8月の日本にツイッターがあったら

もしも1945年8月の日本にツイッターがあったら

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/01/19
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もしもツイッターがあったら

ツイッターについて。私は大学や日本史学といった〝業界〟のトレンドを知るのに使っている。多くのアカウントが私の知らない知識のみならず、本音をご本人が意識しているかどうかは別として、140字でぶちまけてくれるのでとても面白い。面白すぎて研究が手につかないくらいだ。

そんな時にふと思うのが、近代の日本にツイッターがもしあったらどうなるだろうか、ということである。ツイッターの華は、いわゆる炎上である。意見が分かれる問題について、何の気なしに、あるいは意図的に書いたことが多くの人の怒りを招き、罵詈雑言がえんえんと書き込まれる。

近代日本には、炎上必至と思われる事件や出来事がいくつも起こった。私のみるところ、最大の炎上を招いたに違いない出来事は、1945(昭和20)年8月15日に昭和天皇がおこなった、いわゆる玉音放送だろう。

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『勝たずして何の我等ぞ』(朝日新聞社、1944年)

この放送で、天皇はみずからの肉声により、国民に米英中ソなどからなる連合国への降伏を告げた。それまで、天皇以下の戦争指導者たちは米国相手に和平交渉を続けていた。日本側が最終的かつ唯一の和平条件としたのは、「国体護持」である。国体護持とは何かを正確に説明するのは難しいが、ここでは〈天皇を中心とした支配体制の存続〉としたい。

米国側は、それまで日本に無条件降伏を要求しつづけていたから、日本側の条件を呑むことはできなかった。最終的な米国の回答は、天皇と日本国政府の権限は連合軍最高司令官に従属する(subject to)というものだった。見方によっては、天皇を一時的に米国に従属させることはあっても、廃止まではしない、と暗示したともとれる。少なくとも天皇たちはそのように解釈して、8月14日の御前会議で降伏を決定した

翌15日の玉音放送で、日本の一般国民の大部分は降伏を知った。当然多くの人びとが驚愕した。放送のその瞬間までは、一億国を挙げて、本土決戦に訴えてでも徹底抗戦することになっていたからである。そのなげきとも叫びともしれないつぶやきを、当時の権力機構は治安維持の観点から調査し、記録していた。

以下に紹介するのは、『資料日本現代史2 敗戦直後の政治と社会②』(1980年)という書籍に収められた、敗戦当時の全国各地の県当局による国民各層の意向調査の報告書である。

そこからは、あたかもツイッターのタイムラインのように、当時の人々が敗戦という未曾有の事態に関してもらした、さまざまな本音をよみとることができる。引用文は、趣旨を曲げない程度に表記を現代風に改め、一部の人名をイニシャルとしている。高知県のある代議士は、降伏について次のような楽観論を述べた。

大日本政治会支部長 代議士 大石大(8月15日、高知県の調査)
日本の国体を認められない以上、最後の一人に至るまで抗戦を持続するであろうが、停戦したところをみると国体を認めてもらえるものと思う。もし無条件降伏をしても、日露戦争当時と異なって、一般国民には暴動を起こすような気力は全然ないと思う。

大石の「国体〔護持を米国に〕を認めてもらえる」という発言は、昭和天皇以下の指導者層が持っていた、支配体制の存続さえ保障されれば降伏してもよいという考えを的確に見抜いたものといえる。しかしこのような、国体護持さえ保障されれば降伏もやむなしという考え方は、必ずしも支配層だけのものではなかった。

降伏やむなし

酒造業F某(同)
わが国がこれほど弱国とは思わなかった。残念でならない。今日学校から帰った子供たちは皆泣いている。降伏条件には国体の本義に反するようなことはできまい。

F某はおそらく庶民層の人なのだろう。「国体の本義」、つまり天皇中心の統治体制が守られないかぎり降伏はできない、というのだが、逆にいえば国体さえ守られれば、降伏してもよい、というのだ。

「国体護持」を願ったのは、けっして支配層だけではない。多くの人は、それまで当たり前だった秩序や世界観が瓦解するのを何よりも──本土決戦よりも恐れたのである。「国体護持」は、国民に突然の降伏を受け入れさせるうえで、一定の有効性を持つスローガンでもあった。

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『勝たずして何の我等ぞ』(朝日新聞社、1944年)

その「国体護持」を最も強く希望していたのは、調査のいう「右翼分子」の人々である。

大東塾ひんがし会員 H・I(同)
畏れ多くも聖旨にもとづく交戦停止とは申しながら、大君はまさしく民草の上のみ思(おぼ)し召されての事である。我々臣下としては、聖慮のほどをお察し申し上げ、我々から強くお応え申さねばならぬ。武装解除をされてからの国家の維持存続は考えられない。あくまで抗戦を持続すべきだ。

このつぶやきは興味深い。Hは、降伏を決めた天皇に対して、我々国民はそのお気持ちに「強くお応え」するためにも徹底抗戦すべきだという。つまり和平を願う天皇の気持ちは意図的に無視されているのだ。彼らにとってはみずからのイデオロギーにかなう行動をとる天皇こそが天皇であった。

では、その徹底抗戦の主役となるべき軍人たちは、何を考えていたのだろうか。

むしろ左翼のほうが徹底抗戦

高知連隊区司令部々員某(同)
重大発表があるということは、外部から聞いてはじめて知った。もしこれが事実とすれば、我々としてはいまさら降伏することはできない。最後の一兵になるまで、徹底抗戦あるのみである。司令部員はもちろん、郷土の野戦部隊にある者も皆同じ気持ちだと思う。これからは我々が電車に乗っても後の端にされるだろう。

連隊区司令部とは、徴兵事務などを行う陸軍の官衙(かんが、役所)である。その一員である某は、口では徹底抗戦をとなえながらも、これからは国民からの軽蔑の視線にさらされながら生きねばならぬのか、とやるせない本音を吐露している。

もし本気で徹底抗戦する気があるなら電車云々は関係ないはずで、ここから徹底抗戦はしょせん口だけに過ぎないことがわかる。それは多くの陸海軍人に共通する態度だった。彼ら軍人にとって重要だったのは、軍人としての体面を守れるか、この一点のみだった。

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『勝たずして何の我等ぞ』(朝日新聞社、1944年)

軍人よりもむしろ(元)左翼のほうが、徹底抗戦の意気に燃えていた。当時の特別高等警察(特高)から危険思想の持ち主として監視されていた徳島県のある人物は、以下のようなつぶやきをもらしている。

共乙 M・K(8月15日、徳島県の調査)
休戦なんてまったく国民を馬鹿にしている。十や十二の少年でさえ死を覚悟しているほど国民は米英撃滅の闘志に満ちているのだから、私は国民が三分の一以下に減少するまで頑張るであろうと考えていたにもかかわらず、まだまだ戦える余力を残して敗れたとはまったく残念でならぬ。

「共乙」は(元)共産主義者として特高の監視下にあった人を指し、「乙」は「甲」よりは監視の重要性が低い。この「国民が三分の一以下に減少するまで頑張る」べきだ、という発言から私が想起するのは、特攻の父とも称された大西瀧治郎海軍中将が敗戦直前に徹底抗戦を主張して吐いた、「二千万の特攻を出せば必ず勝てる」という有名な言葉である。

大西の発言は、仮に日本人100人と米兵1人の命を交換したとしても、2000万の日本人が命を捨てれば20万の米兵を殺せる、そうすれば米国内の世論が日本に妥協するから勝てるという予測にもとづくと、私はみている。

しかしMは、2000万どころか倍の4000万以上殺してもかまわない(当時の内地人口は約7200万)というのだ。降伏直後の日本には、大西などよりはるかにラジカルな考えを持っていた国民がいたことになる。一般国民がみな平和を待望し、降伏を歓迎したのではない。

全国民を挙げた特攻、すなわち一億総特攻による勝利に期待する人は、じつは軍のみならず国民のあいだにも大勢いた。彼らにとって、一億総特攻は決して絵空事ではなかった。この点については、私の新刊『特攻隊員の現実(リアル)』(講談社現代新書)をご覧いただきたい。

今も昔も問題となる「デマ」

ところでツイッターといえば、デマの拡散が問題にされる。1945年の日本にも、降伏という異常事態にともなうデマがあった。以下は鳥取県が9月5日付でおこなった国民動向調査にみえる、デマの一部である。

東条〔英機、元首相〕は朝鮮人だそうだが自刃もせずに満洲に逃げたそうだ
言論結社の自由を許して国体護持は危ないものだ

2020年の日本のネット空間にも、政治的に気にくわない人を差別的に「朝鮮人」認定する人や、支配体制目線で言論の自由をはじめとする国民の権利制限を当然視する人がいる。この点、75年たっても日本人はそんなに変わらないといえる。

しかし、大局的にみれば、国民の多くはそれまでの支配体制や権威への従属ではなく、むしろ不信感を強めていった。先に引用した、徳島県の(元)左翼のM・Kは、つぎのようなつぶやきも同時に発していた。

昨日まで新聞でもラジオでも最後の一兵に至るまで頑張り通せと国民を指導しておきながら、手のひらを返すように休戦なんて、私はもう指導者の言うことは信用せぬ。御上〔天皇〕にはついて行かれん。政府は国民を愚弄した。

敗戦から1ヵ月近くたち、人々の興奮も沈静化しつつあった9月11日付の佐賀県知事の報告によれば、ある県民もまた、次のように述べている。

敗戦に対する一億総懺悔(ざんげ)をせよというが、国民は政府のいうところ易々淡々として戦勝を目指して興国体制確立に最善の臣道実践を尽している。ゆえに敗戦に責任あるとすれば、それは最高為政者のみではないか。いまさら民衆に敗戦責任を論じるのは不都合だ。

戦争に負けたのは指導者のせいであり、我々国民のせいではないというのである。敗戦前後を通じて、国民は軍や指導者に対する不信を強めていた。その最大の種となったのが、敗戦もさることながら、軍人や役人、富裕層による乏しい食糧の横流しである。

降伏という未曾有の事態を通じて国民につちかわれた、公権力・権威への不信の念。これこそが、吉田裕がいうように、「私的エゴイズムが国家の公的タテマエを下から掘りくずし」ていき、「私生活を優先し、豊かな生活を渇望する個々人の人間的要求を全面的に肯定し承認」する戦後民主主義の基盤となっていくのだ。

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【参考文献】
粟屋憲太郎編『資料日本現代史2 敗戦前後の政治と社会①』(大月書店、1980年)
「重大発表後に於ける治安状況に関する件」高知県知事 (1945年8月15日)
「大詔渙発に伴ふ措置並に反響等内査に関する件」徳島県知事 (同年8月16日)
「一般部民の動向に関する件」鳥取県警察部長(同年9月5日)
「終戦後に於ける部民の言動に関する件」佐賀県知事 (同年9月11日)
川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫、2004年)
吉田裕『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』(岩波新書、2007年)

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