「エルサレム」とはどんな場所か? 地理的、歴史的に振り返る

「エルサレム」とはどんな場所か? 地理的、歴史的に振り返る

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  • 更新日:2018/01/20
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[写真]エルサレム旧市街の空撮写真。2008年10月15日撮影(ロイター/アフロ)

昨年末に米国トランプ大統領が「イスラエルの首都」と認定したことで注目を集めたエルサレム。その面積は郊外を含めて652平方キロメートルと、東京23区(612平方キロメートル)とあまり変わりませんが、この街は中東一帯の火種であり続けました。エルサレムとは、どんな場所なのでしょうか。(国際政治学者・六辻彰二)

●3つの宗教の聖地である由来

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[地図]イスラエルとパレスチナ自治区

イスラエルとパレスチナの間の対立において、エルサレムは常に大きな問題であり続けました。それは、この街がユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって、それぞれの聖地であることによります。

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[写真]2017年5月、エルサレムの「嘆きの壁」を訪問したトランプ米大統領(ロイター/アフロ)

紀元前10世紀にこの地を治めたソロモン王は、聖書によると、 モーゼが神から授かった十戒の石版を祀(まつ)る神殿をエルサレムに建設。このソロモン神殿は紀元前6世紀、バビロニアに破壊されました。その後、ユダヤ人たちが神殿を再建し、ヘロデ王が増改築しましたが、紀元前70年 、ローマ帝国によって破壊されてしまいます。しかし、その遺構は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒にとって神聖な祈りの場になっています。

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[写真]エルサレム旧市街にある岩のドーム(ロイター/アフロ)

また、この地はイエスがローマによって十字架に架けられ処刑された土地でもあります。そのため、イエスの墓である「聖墳墓教会」があるとされるエルサレムは、イエス生誕の地であるベツレヘムなどとともに、キリスト教徒にとっても宗教的に重要な街なのです。

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[写真]エルサレム旧市街にある岩のドーム(ロイター/アフロ)

そして、イスラムの預言者ムハンマドは621年にエルサレムから天に昇り、神から言葉を授かったといわれます。この伝承により、エルサレムはイスラム教徒にとっても、メッカ、メディアに次ぐ聖地となり、ムハンマドが「昇天」したといわれる地点に「岩のドーム」や「アルアクサ・モスク」が建設されました。これらは嘆きの壁の上にあるイスラム教徒地区に建っています。

これら三宗教にとって聖地であることからエルサレムは、11世紀に始まった十字軍をはじめ、近代以前から争いの舞台となってきました。

●4つの地区に分かれる旧市街

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[地図]エルサレムの旧市街

旧市街はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、アルメニア人の4つの区画に分かれています。エルサレムは旧約聖書の時代から破壊と増設が繰り返されてきましたが、旧市街の現在の基本的な構造は、1517年から1917年までこの地を支配したオスマン帝国の時代にアルメニア人居住区が確立されたことでほぼ完成しました。

コーカサス地方にルーツをもつアルメニア人は、その一部が紀元4世紀頃にエルサレムに移り住んだといわれます。ほとんどがキリスト教徒ですが、その多くはローマ・カトリック教会とも東方正教会とも異なるアルメニア教会の信者で、さらにユダヤ人ともパレスチナ人(アラブ人)とも言語的、文化的に異なります。

オスマン帝国はイスラムを強制するよりむしろ宗派や民族ごとに分けて支配し、異教徒には税を課す代わりに信仰を認めていました。旧市街に残る4区画は、オスマン帝国の支配哲学を象徴するものといえます。

●第一次大戦後にユダヤ人流入増える

ところが、この状況は第一次世界大戦(1914~1918年)でドイツ側に立って参戦したオスマン帝国が敗れたことで一変。オスマン帝国崩壊の混乱のなか強制移住させられたアルメニア人はパレスチナ全域で激減し、これと入れ違いにユダヤ人が人口を増やし始めたのです。

紀元1世紀にこの地を追われ、各地で迫害されたユダヤ人の間には、20世紀初頭 からパレスチナへの帰還運動(シオニズム)が広がっていました。この背景のもと、第一次世界大戦中の1917年、イギリス政府はユダヤ人財閥から軍資金を調達するため、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を創設すること」を約束(バルフォア宣言)。 第一次世界大戦後、オスマン帝国の領土だったパレスチナがイギリスの支配下に入ると、戦争中のこの約束に沿ってユダヤ人の流入が進んだのです。

ところが、イギリス政府はやはり第一次世界大戦中の1915年、ドイツの同盟国オスマン帝国に支配されていたアラブ人に、オスマン帝国への反乱と引き換えに「戦後オスマン帝国の領土にアラブ人国家を建設すること」を約束していました(フセイン・マクマホン協定)。ところが、当初イギリスはこの約束を反故にしようとし、さらにパレスチナにユダヤ人が大量に流入したことでアラブ人の不満が爆発。イギリスはこれを抑えるため、1921年にイラク王国を、1923年にトランス・ヨルダン首長国を建国しましたが、これらは委任統治領として実質的にイギリスの支配下に置かれ続けたため、アラブ人の不満が収まることはありませんでした。

この時期にパレスチナに移住したユダヤ人の多くは、エルサレム周辺に集まりました。オスマン帝国の統計によると、1905年のエルサレム人口のうちユダヤ教徒は1万3300人、イスラム教徒は1万1000人でした。ところが、イギリスの統計によると、1931年のユダヤ教徒は5万1000人、イスラム教徒は1万9900人。パレスチナ全体でみればユダヤ人の人口は少なく、その後の1947年段階でも全人口の32パーセントにとどまりましたが、それでもこの人口構成の急激な変化は両者の対立を深刻化させたのです。

●第二次大戦後にエルサレムは東西分割

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[地図]東西エルサレムと旧市街の位置関係

第二次世界大戦後、ユダヤ人とパレスチナ人の対立はイギリスの手にも負えなくなるほど激化。その結果、国連総会は1947年、両者の共存が困難と判断し、パレスチナをユダヤ人とパレスチナ人で分割することを決議。これにともない、エルサレムは国際管理地区と定められたのです。

ところが、この国際管理はほどなく崩れました。国家樹立の悲願が実現してこれを歓迎したユダヤ人と対照的に、イスラム諸国は国連決議を批判。1948年にイスラエルが建国を宣言するや軍事的に介入したのです(第一次中東戦争)。戦闘のなかエルサレムはイスラエルとイギリス委任統治領だった1946年に独立したトランス・ヨルダン王国(1950年に後のヨルダン・ハシミテ王国 と改称)によって東西から占領されました。

1949年のローザンヌ議定書では、イスラエルとヨルダンの占領地に沿って休戦ラインが確定されました。これに基づき、ヨルダンが「東エルサレム」を含むヨルダン川西岸を併合したのに対して、イスラエルは「西エルサレム」を首都と宣言し、政府機関の移転を開始したのです。

エルサレムの東西分裂にともない、西エルサレムに居住していたイスラム教徒や東エルサレムに居住していたユダヤ教徒、キリスト教徒はそれぞれ排除されました。エルサレムの東西分裂は宗派の純化を促し、結果的に相互不信をさらに深めたのです。

●イスラエルの実効支配が進む

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[写真]イスラエルが第三次中東戦争でエルサレム全域を制圧したことを記念するイスラエルの「エルサレムデー」。旧市街のダマスカス門の前でイスラエルとパレスチナの旗を振る人が見える(ロイター/アフロ)

エルサレムが再び「統一」される転機となったのは、1967年の第三次中東戦争でした。この戦争でイスラエル軍はヨルダン川西岸の全域を制圧。これにともない、東エルサレムは西エルサレムに事実上併合されたのです。

これに対する批判がイスラム諸国だけでなく米国を含む西側諸国から出るなか、イスラエルはエルサレムの実効支配を強化。エルサレム市域が拡大され、ユダヤ人居住区が確保された一方、周辺のパレスチナ人居住区は市域から排除されました。エルサレム人口に占めるユダヤ人の比率が高まるなか、1980年にイスラエル政府は「エルサレム基本法」を制定し、統一エルサレムを首都と宣言。大統領府や議会をはじめとする国家機関を設置し、各国に対して大使館をテルアビブから移転することを求め始めました。

統一エルサレムの実効支配を国際的に認めさせようとするイスラエルに対して、国連安保理はエルサレム基本法を無効とし、イスラエルの主権を認めないことを確認する決議を採択。それ以降も毎年のように国連総会でこれを確認する決議が採択され、イスラエルは孤立を深めていったのです。

●膨らんでは消える和平機運

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[写真]旧市街に隣接するパレスチナ人居住地区から見える岩のドームとアルアクサ・モスク。ユダヤ人入植者の家の上にはイスラエルの旗が掲げられている。2014年11月撮影(ロイター/アフロ)

イスラエルとパレスチナの対立は、冷戦終結後に一時緩和しました。米国の仲介による1992年のオスロ合意でイスラエルは、パレスチナ側の停戦を条件に、パレスチナ自治政府の発足を認め、その将来的な「国家」としての独立について協議することを約束。その後、双方は断続的に和平交渉を進めてきました。

ただし、そこでは「合意しやすいところから合意していく」ことが優先されたため、「合意の得にくい問題」は先延ばしにされてきました。そのなかには第一次中東戦争以来のパレスチナ難民の帰還問題とともに、エルサレムの帰属も含まれます。そのため、イスラエルによる実効支配が続くなか、オスロ合意に基づいてヨルダン川西岸に発足したパレスチナ自治政府は東エルサレムではなく、その北方約10キロにあるラマラに置かれています。

ところが、一時緩和した両者の関係は、2001年以降の対テロ戦争を機に再び緊迫の度を強めました。2002年にイスラエルは、パレスチナに武器を運んでいた船舶を公海上で拿捕。「パレスチナ自治政府のテロへの関与」を主張してイスラエル軍がラマラを占拠する事態となりました。これと並行してイスラエルは、「テロ対策」としてヨルダン川西岸のユダヤ人入植地とパレスチナ人居住区の間で分離壁の建設を開始。これに対して各国からは「テロ対策を口実に実効支配を既成事実化している」という批判があがりました。

●エルサレム問題の行方は

エルサレムの帰属に関して、これまで主に2つの解決案が提示されてきました。

第一に、サウジアラビア政府が2002年に提示した、イスラエル軍の即時撤退、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立、難民の帰還――の3点を引き換えに、アラブ諸国がイスラエルとの関係を正常化する和平構想です。イスラエルの実効支配によってエルサレム全域をパレスチナのものにすることが困難であるなか、「東エルサレムを将来的なパレスチナ国家の首都」とする案は、パレスチナ側からも受け入れられています。

第二に、EUが提案する「統一エルサレムをイスラエルとパレスチナが共用する」案です。この案は1980年代に米国でもみられたもので、イスラエルとパレスチナ双方の納得を得ようとするものです。

これに対して、対テロ戦争を機に、それまで以上に実効支配を強化するイスラエルは、ユダヤ教保守派の政治的影響力の拡大も手伝って、統一エルサレムを首都とする方針を堅持。しかし、その結果、パレスチナやイスラム諸国からの反発をさらに強める悪循環に陥っています。

このような錯綜した背景があるなか、トランプ政権が統一エルサレムをイスラエルの首都と認定したことは、イスラエルにとっては朗報でも、それ以外の国にとっては多かれ少なかれ衝撃になりました。今後の展開は予測が困難ですが、今回の決定によって対立がより激しくなるだけでなく、パレスチナが米国を仲介者と認めなくなったことで、対立の収拾がより困難になったことは確かといえるでしょう。

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■六辻彰二(むつじ・しょうじ) 国際政治学者。博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、幅広く国際政治を分析。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学、東京女子大学などで教鞭をとる。著書に『世界の独裁者』(幻冬舎)、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『対立からわかる! 最新世界情勢』(成美堂出版)。その他、論文多数。Yahoo!ニュース個人オーサー。個人ウェブサイト(http://mutsuji.jp)

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