風はなぜ変わったか?衆院選結果に見えるネット時代「排除」と「集団志向」

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  • 更新日:2017/10/27

22日に開票された衆院選は自公与党の圧勝で幕を閉じました。しかし開票センターに現れた自民党総裁の安倍首相の表情に笑顔はなく、躍進した立憲民主党の枝野代表も喜びを前面に出すことはありませんでした。新党立ち上げ、野党再編、分裂とめまぐるしく情勢が急展開した今回の総選挙。短期間に有権者の支持にも大きな変化がありました。

風はなぜ変わったのか。建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが執筆します。

ゲーム化する選挙

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自公与党の圧勝を受けて会見する安倍首相(2017年10月23日)

自民勝利、希望敗北、立憲民主大健闘という結果だ。

それにしても、期間中にこれほどのドラマが展開された選挙もなかったのではないか。初めは自民党有利と踏んで解散し、その安倍解散自体が批判されたのであるが、小池知事が希望の党を立ち上げ、民進を飲み込んで一挙に対抗勢力となる気配となった。小池劇場満員御礼である。しかしある時点で流れが変わり、立憲民主党を立ち上げた枝野旋風が吹き始めた。

希望の党が対抗勢力となった時点で筆者は、このサイトに「ネット社会の民意の参加者『個室の大衆』」といったタイトル(実際はもっと長い)の記事を書いた。テレビの前の「茶の間の大衆」は、放送という公器にしばられた「タテマエの民意」に引っ張られるが、ネットに参加する「個室の大衆」は、孤独なキーボードから「ホンネの民意」を叩き出す。

政治状況は、言葉の格闘技としてゲーム化し、さらに流動性が高まるという趣旨である。今回の選挙は、政策だけでなく政治家の節操への審判だとしたが、まさにその審判が下ったように思える。

それは「日本という家」の成員としての振る舞いに対する情緒的な審判であり、小池劇場から枝野旋風へと流れが変わったのは、「排除」という言葉が契機であった。

突き刺さる「排除」

人々はなぜこれほど、小池都知事の「排除」発言に敏感であったのだろうか。

実はこの言葉が、今の世界と日本の政治状況に突き刺さる、鋭い矢であったからだ。

米大統領選におけるトランプ勝利は、もともと移民で構成されていたはずのアメリカに、新しい移民の排除と白人至上主義すなわち人種排除をもたらし、国家の分断を引き起こしている。英国のEU離脱も、カタルニアの独立投票も、国家と民族が、統合と融和の方向から離脱と排除の方向に転じる流れである。つまりアメリカでもヨーロッパでも「無差別テロと大量難民」という厳しい現実に対して、国家、民族、宗教といった所属集団における「排除の論理」が激しくなっているのだ。

日本では、無差別テロと大量難民が露骨に現象しているわけではなく、民族や宗教の排除が大きな社会問題になっているわけでもない。しかし北朝鮮の核ミサイル問題はそれに匹敵する危機感を国民に与え、国際社会あるいは関係国が、その異常とも見える指導者と国家体制を、思い切って排除すべきであるかどうかが、喫緊の課題となっている。

つまり海外でも国内でも、現在「排除」は、英語でいう「タッチー」すなわち刺激的で微妙な言葉なのだ。

「家社会」の精神的排除

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投開票日前日の21日、温暖化国際会議出席のため、パリ出張に向かう希望の党代表の小池百合子都知事(写真:Motoo Naka/アフロ)=羽田空港

これに加えて日本社会には、特有の「家社会的排除」の問題が潜在する。

学校ではイジメ、企業では過労死、鬱病は常態化し、自殺率は高い。こうした問題は、日本社会の深いところで何らかの精神的排除がはたらいていることを示すのではないか。

元来日本は、情緒的同一性に支えられた「家社会」である(拙著『「家」と「やど」 ── 建築からの文化論』朝日新聞社刊参照)。その成員は簡単に排除されるべきものではない。しかしそれはタテマエであって、ホンネでは、異質なものを、あるいは富や力や才を有する者に対する嫉妬も絡んで、精神的に排除しようとする力がはたらく。

今回、自己の所属集団の動向に敏感な「個室の大衆」は、その「排除」に反応したのだ。

希望の党に合流しようとした民進党候補者に対する「排除」は、憲法改正と、安保法案への賛否という形で条件をつけたのであり、論理的には野合という批判に応じた形である。

だが蓋を開けてみれば、大物議員はすべて排除で、日本新党の経験から、小池知事はその後の権力闘争を予備的に回避した感がある。その意味では、彼女は論理的であろうとし、先を読もうとしていたのだが、「排除」に対する日本人の鋭敏な情緒性と、ネット時代の「個室の民意」がこれほど早く反応することを理解していなかったのではないか。ニュース・キャスターであった彼女は、まさにテレビ時代の「茶の間の民意」の申し子である。

統合と排除の政治ゲーム

思い起こせば、これほどの小池ブームが起きたのも、都知事選に出馬した際、自民党から排除されたからであった。

大きな組織を敵にまわし、一人で都議会のドンに立ち向かった姿は、百年戦争でフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクのようなイメージであった(のちに異端とされ火刑に処される)が、今回の発言以来、政敵を次々と排除して権力を掌握した清朝末期の西太后のようなイメージに一転したのだ。

また安倍政権の危機も、お友達を優遇しそれ以外を排除するということから始まった。とりわけメモの存在と前川元文科相事務次官の発言を排除する行為に対して、個室の大衆は、権力の傲慢を察知したのである。

小池知事による民進党員の排除に反応した個室の大衆は、一転、対抗して立ち上げた立憲民主党の枝野代表支持に向かった。SNSのフォロワー数が急増し、枝野旋風が吹く。

政策的には、左寄りで共産党にも近く、現在の日本でそれほど大きな支持を得るとも思えないが、穏健なリベラル(本来自由主義だが、現在の日本ではやや左に寄った意味)を巻き込んだのは、政策への同意というより、安倍一強による排除にも希望の党の排除にも反発する情緒的共感によるのだろう。日本人は判官贔屓だ。

権力に批判的な勢力の結集を切々と呼びかける姿は、福島第一原子力発電所の事故のときに官邸からの発言を続け、辛うじて政治の存在感を保った姿を思い起こさせた。枝野には小池とは異なる、SNS時代の吸引力がある。

そう考えてみれば、今回の選挙は、あたかも統合と排除の政治ゲームであったのだが、そこに世界の政治情勢と日本社会の特徴とネット時代の傾向が重なって、きわめて流動的な状況が生まれたのである。

孤独な群衆

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民進党代表選に出馬したときの枝野氏と前原氏。わずか2カ月後に袂を分かち、衆院選を争うことになった(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)=2017年8月21日撮影

ネット社会における民意の参加者「個室の大衆」は、所属集団の利益に敏感であり、またそれ以前に、自らの所属性の根拠に鋭敏である。つまり「集団志向」だ。

そこで筆者は、デビッド・リースマンの『孤独な群衆』を思い起こす。1950年に発表された社会学の名著で、学生時代に読んで感銘を受けた。

ある社会が近代化する過程において、人口が、多産多死による安定から、多産小死による急増、そして小産小死による安定へと変化するのに応じて(実際にはもう少し微妙な表現)、人々の「社会的性格」が、宗教や道徳など伝統的価値観に従う「伝統志向」、個人の内面的な思想信条に従う「内部志向」、周囲の人々に追随する「他人志向」と、変化するという。

テレビが普及する以前の著書であったが、これには、炉端話の時代、印刷物の時代、マス・メディアの時代と、メディアの変化が対応している。

伝統志向から内部志向への変化は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも近い考え方であるが、他人志向という見方は、それ以後に展開されたテレビ社会にも、よく当てはまるように思えた。

さてネット社会はどうであろう。

前述の「集団志向」は、リースマンのいう他人志向の延長とは少し違うような気がする。所属集団に敏感という意味で、むしろ伝統志向に回帰するとも思えるが、かつてのように固定的なものではなく、可変的で選択的な集団性なのだ。

インターネット、SNSという新しいコミュニケーション・ツールを手にした人間は、伝統志向、内部志向、他人志向の過程を経て、これまでとは違った「新しい帰属性」「選択的集団性」を模索しているのではないか。

メディアと政治と社会性格

これを、前回のメディアと政治の関係の歴史に加えて整理してみよう。

1期・無文字政治:文字のない社会における原始的シャーマニズムの政治。社会的性格は、自然の恵みと脅威に支配される「自然志向」である。

2期・文字政治:文字によって体系化された法律と宗教(思想)による政治。社会的性格は、その社会の宗教道徳に従う「伝統志向」である。

3期・活字政治:活字ジャーナリズムによる「事実と論理」による、知識階級民主主義。社会的性格は、個人の内面的な思想心情に従う「内部志向」である。

4期・テレビ政治:テレビによって「人間」を見る、劇場的な、茶の間の大衆民主主義。社会的性格は、周囲(テレビ出演者も含め)の人々に追随する「他人志向」である。

5期・ネット政治:インターネット特にSNSによる「感情」がぶつかり合う、ゲーム的な、個室の大衆民主主義。社会的性格は、選択的集団性を模索する「集団志向」である。

総じて世界は、個人と普遍性の時代から、集団と固有性の時代へと移行しているような気がする。

政治家こそ国難

そういった視点に立ったとき、これからの日本文化は、明治維新以来の「進歩発展」という西欧的な歴史観に寄り添うばかりではなく、かといって伝統的な価値に回帰するのでもなく、独自の受容力(異文化を受容する力)と免疫力(有害なものを排除する力)を発揮して、可変的選択的集団性の、融合と排除の力学を乗り切って行かなくてはならない。

小池都知事はカイロ大学の出身で、その乾燥の風土における政治感覚は、日本という湿潤の風土に合わない部分があったかもしれない。しかし今日この国に垂れ込める重い暗雲を払拭するような根底からの改革には、そういった外力ともいうべき力が必要であるような気もする。

ともあれ今回の選挙結果は、政治家の節操への審判であり、政治家の質そのものへの審判であった。議員の定数と報酬を削減すべきだろう。税金の無駄を減らす意味もあるが、その方が、質が高くなると思うからである。〇〇チルドレンはもう要らない。「身を切る改革」が必要だ。

安倍首相は、北朝鮮危機と少子高齢化を国難としたが、今の政治家のあり方こそが国難である。

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