エスパルス移籍で、変えざるを得なかったプレースタイル

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2017/08/13

移籍を後押しした「不満」

1998年10月28日、横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併に向けて動いていることが発覚した。

フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が経営不振に陥っており、もう1つの出資会社、全日空もクラブを支えきれないと判断したのだ。

そして日産自動車と協議の上、マリノス主導でフリューゲルスが吸収合併されることになった。この合併は翌日行われたJリーグ理事会で承認。この年の天皇杯がフリューゲルスとして最後の大会となることになった。

合併後、永井秀樹、三浦淳宏、波戸康広など5選手がフリューゲルスからマリノスに“移籍”した。彼らの加入の同時期、安永聡太郎に清水エスパルスからオファーが届いたという。

「ぼくとしてはスペインから帰ってきて、監督がスペイン人で気持ち良くサッカーが出来た。次の年もスペイン人の監督だったので、ぼくとしてはマリノスでやりたかったんですが、給料が少し下がると言われた。そんなときにエスパルスから給料の面でマリノスより好条件でぼくを欲しいという話があった。

エスパルス側はマリノスの希望する移籍金も準備していた。ぼくはマリノスの人に“給料の面でエスパルスと同じくらいに何とかなりませんか?”と話したんです。そうしたら、“向こうの話を聞いておいで”とチームの人から言われた。移籍金を満額出してくれるし、行きたきゃ行ってもいいよ、と。それがすごく淋しくて“じゃあ、エスパルスに行こう”と思った」

自分はスペインでもう少しやりたかった。チームのために日本へ帰って来いと言われて戻ってきたのに、その扱いはないだろうという不満も移籍を後押しした。

翌99年シーズン、安永は清水エスパルスに移籍した。しかし――。

「ぼくがエスパルスに行ってもいいなと思っていたのは、(オズワルド)アルディレス(監督)のサッカーを見ていたからなんです。ところがアルディレスが98年シーズンの途中に辞めてペリマンになっていた」

スティーブ・ペリマンは元イングランド代表選手経験を持つ指導者である。

「ペリマンの戦術は、1枚ポストプレーの出来る選手を前線に置いて、もう1枚のフォワードは衛星のように動き回るというものだった。ポストプレーの選手はボールを受けたら、すぐにはたけという。ぼくはそれが凄く嫌だった」

はたく、とはフォワードは自分でゴールに向かうのではなく、ゴールを背にしてサイドを駆け上がってくる選手にボールを出したり、相手ゴール方向を向いている中盤の選手にボールを出したりすることを意味する。そしてサイドの選手や中盤の選手が前にボールを運び、ゴール近くで中央に戻す。

「スペインのリェイダでボールを持ったら前に行くという感覚が身につきつつあった。マリノスでもそのサッカーでいい感触があった。ぼくの中ではフォワードというのはボールを持ったら前に行くべき。受けたら(近くの選手に)はたくというのは、マイナス思考だと思っていた。自分の中では(ボールを持ったら、相手のゴールに向かって)突っかけてナンボのもんだと思っていたのに、それを禁じられた。“俺の良さが出ないじゃん”って」

「不満」を抱きながらのプレー

ファーストステージ最初の2試合で安永は先発起用されている。しかし、ペリマンは安永の動きに満足しなかったのだろう、その後は先発から外された。

「その後、(同じフォワードの長谷川)健太さんが出られなくなって、残り5試合でまたスタメンに戻った。それでファーストステージは3位。セカンドステージが始まる前に、また監督から呼ばれて、“チームのためにポストプレー的な仕事が出来るのはお前しかいないからやってくれ”と言われた。そんだけ言われたら、チームが勝つんだったら、まあいいかって」

セカンドステージ、安永は監督の指示通りポストプレーに専念。そして、チームは優勝を成し遂げた。チャンピオンシップではファーストステージを優勝したジュビロ磐田に敗れたものの、年間の獲得勝ち点は首位。年間通して最も安定した試合をしたクラブだった。

「チームが勝っているから、あんまりばっと言えないし。自分の中の不満を抱えながら、二年目に入った」

2000年シーズン、エスパルスはファーストステージでは3位に入ったが、セカンドステージでは下位に低迷した。

「ペリマンは、ボールを持ったときに、最初に両サイドのウィングバックと、相手のサイドバックの裏に流れたぼくを見るように選手たちに意識づけさせていた。ノボリさん(澤登正朗)、テル(伊東輝悦)とか中盤の選手は本来(広い視野で)見られる選手なのに、一発のスルーパスで点が取れるようなプレーがチームとしてなくなった。

ぼくはゴール前でのプレー機会を増やしたかったんですが、サイドに流れることが第一の約束だった。そこで一度起点を作って、クロスに合わせるんですが、クロッサーから一番近いファーストディフェンダーの前にぼくが入ることがチームとしての約束事だった。自分の得意なタイミングや得意な位置に入れなかった。周りが点を取るために潰れ役だった。ぼくが点を取れるチーム戦術ではなかったことが、納得できなかった」

同年12月、ペリマンは成績低迷の責任を取り監督を退いている。代わって監督となったのはセルビア人のズドラヴコ・ゼムノヴィッチだった。ゼムノヴィッチは99年にエスパルスのユース・ジュニアユースの総監督に就任。翌年はユースの監督を務めた。

監督を交替した後の出足は良かった。直後の天皇杯では準優勝という好成績を残している。

当初、安永とこのセルビア人指揮官との関係は悪くなかった。

「最初はペリマンのような制限もなく、自由にやらせてもらっていたからいいやって思っていた。そのうち自由度が高い分、ゼムさん(ゼムノヴィッチの愛称)は何を選手に求めているのか理解できなくなった。ペリマンの場合、ミスをしても彼の求めるプレーをしようとすれば、褒めてくれた。自分の考えとは違うけれど“ああ、こういう考えもあるんだな”と理解はできる。

しかし、ゼムさんの場合は“成功すればOK”“失敗したらNG”のタイプの監督。結果で判断されるのは、ある種プロとして当たり前なんですが、それだけで良し悪しを判断されてしまうと、選手に戦術として何を求めているのか、ぼくはわからなくなってしまった」

一言居士の安永が監督と衝突するのは時間の問題だった――。

(つづく)

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