ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第77話>

ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第77話>

  • 日刊SPA!
  • 更新日:2018/05/16
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連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第77話は「ザ・グレート・ムタ アメリカのMUTAと日本のムタ」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

ザ・グレート・ムタは武藤敬司の“化身”である。

アメリカにはケイジ・ムトウという素顔の日本人レスラーは存在しない。武藤のなかでは“武藤”と“ムタ”はまったく異なるふたつの人格、あるいは武藤自身が好んで使う表現を用いれば、別べつの“作品”になっている。

ムタは“ひょうたんから駒”のような感じで誕生した。武藤が2度めの海外武者修行となるプエルトリコ遠征に出発したのは1988年(昭和63年)1月。

当時の新日本プロレスは新日本・正規軍、長州軍(前ジャパン・プロレス)、UWFの3グループが同居する大所帯で、キャリア4年の“スター候補”だった武藤は、日本を脱出して海外に活躍の場を求めた。

プエルトリコからダラスWCCWに転戦してテキサスをツアー中だった武藤をWCWにブッキングしたのは、ザ・グレート・カブキの“生みの親”でもある悪党マネジャーのゲーリー・ハートだった。

ハートは武藤をカブキの息子として売り出すプランを立てていた。ムタというリングネームは、アメリカ人がローマ字のMutoを誤って“ムータ”と発音したことから定着してしまった。

カブキの息子という設定だからポジションはもちろんヒール。顔にはペインティング、入場シーンでは“毒霧ミスト”の噴射というルーティンが踏襲された。

ムタのペインティングは筆で描く漢字が基調になっていた。顔に塗ったときにデザインとしてバランスがいいのは“炎”“忍”“者”の3文字なのだという。

鏡をのぞきながら字を書くから、顔に描かれた文字そのものは反転バージョンになる。ペインティングの色は赤と黒、赤と白のコンビネーションが基本だが、コスチュームの色によってライトブルー、グリーンなどが加わることもあった。

ムタはWCWでのデビューからわずか3カ月でメインイベンター・クラスに昇格し、ライバルだったスティングを下してNWA・TV王座を獲得(1989年9月3日=ジョージア州アトランタ)。

リック・フレアーが保持していたNWA・WCW世界ヘビー級王座にもアトランタ、ボルティモア、グリーンズボロの各都市で連続挑戦。

1989年12月のスーパーイベント“スターケード”ではメインイベントでフレアー、スティング、レックス・ルーガーを相手に“アイアンマン・コンペティション=シングルマッチ総当たり戦”をおこなった(1989年12月13日=ジョージア州アトランタ)。

翌1990年(平成2年)3月に帰国した武藤を待っていたのは“武藤敬司”と“グレート・ムタ”の同時進行というひじょうにやっかいなテーマだった。

WCW在籍時代のムタの試合はじつは武藤のそれとまったく同一のもので、素顔の“武藤”が存在しないアメリカのリングではふたつのキャラクターのちがいを意識したことがなかった。

日本の観客のまえで“武藤”と“ムタ”を演じ分けなければならなくなった武藤は、“ムタ”を幻想的な完全ヒール・バージョンに創りなおし、リング・コスチュームもペインティングもマイナーチェンジをくり返した。

武藤は「ほんとうはムタは日本ではやりたくなかった」とコメントしたが、それがムタの本音だったのかもしれない。

ムタはムタとしてIWGPヘビー級王座を手に入れ、武藤は武藤としてIWGPヘビー級王者になった。

2000年(平成12年)、武藤は新日本プロレスとの年間契約をペンディングし、約10年ぶりにWCWと契約。

フルタイムのムタとして約半年間アメリカをツアーしながらWCWのエピローグを目撃し、スキンヘッドにイメージチェンジして日本に帰ってきた。

新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍は“新しい武藤敬司”の1ページだった。武藤は“プロレス芸術家”として作品づくりをつづけ、ムタはその作品のなかのお気に入りのひとつになった。

2013年(平成25年)、全日本プロレスを退団して新団体WRESTLE-1を設立。現在は“限定出場”という形で現役生活をつづけている。

●PROFILE:グレート・ムタThe Great Muta
1962年(昭和37年)12月23日、山梨県出身。本名・武藤敬司。1984年(昭和59年)10月5日、埼玉・越谷でデビュー(対戦相手は蝶野正洋)。1985(昭和60年)年11月、フロリダ武者修行に出発。1986年(昭和61年)10月、帰国。1988(昭和63年)年、再渡米。プエルトリコ、ダラスWCWをサーキット後、WCWと契約。1990年(平成2年)3月、帰国。2002年(平成14年)2月、新日本プロレスから全日本プロレスに移籍。同年10月、社長就任。2013年(平成25年)、全日本プロレスを退団し、新団体WRESTLE-1を設立。限定出場という形で現役生活をつづけている。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

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