映画初主演を果たした棚橋弘至が  熱い「新日本プロレス愛」を激白!

映画初主演を果たした棚橋弘至が 熱い「新日本プロレス愛」を激白!

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  • 更新日:2018/09/21

板橋雅弘、吉田尚令による人気絵本を映画化した『パパはわるものチャンピオン』で、映画初主演を務めた、新日本プロレスの人気選手・棚橋弘至。2016年「第35回ベスト・ファーザー・イエローリボン賞(スポーツ部門)」受賞経験もある“100年に一人の逸材”が、“新日本プロレス愛”を振り返る。

プロ野球選手という夢を諦め 大学進学を志す

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――幼少時代の夢は、プロ野球選手だったんですよね。

新日本プロレスのファンであると同時に、中日ドラゴンズのファンだったこともあり、小・中・高と、ずっとプロ野球選手を目指していました。それを諦めた理由は、ほとんどの高校球児と同じです。ホームランバッターになりたい夢を持っていても、普通の高校でレフトの7番打者だった僕は、甲子園に行くことができる全国レベルの選手にはかなわないということに気づいてしまったからです。

――その後、すぐにプロレスラーの道に進まず、大学に進学した理由は?

当時の僕の体重は65~68kgだったので、プロレスラーになるのは難しいと思っていました。そのため、プロレスラーになる選択肢はまったくありませんでした。それよりも、野球の素晴らしさを伝える新聞記者になるという新しい夢を見つけ、マスコミに強い社会学部などのある大学を受け、最終的に立命館大学に進学しました。でも、新聞記者の夢は、大学1年で途切れました(笑)。

三度目の正直で 「新日本プロレス」に入門

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――スポーツ新聞の記者になる夢が途切れた理由は?

大学のプロレス同好会に入ったからです。それでトレーニングを始めていくうちに、1年間で15キロ増やすことができたんです。当時のプロレス界は、(獣神サンダー・)ライガーさんなど、(体重100キロ未満の選手を対象とした)ジュニアヘビー級が盛り上がっていて、もうちょっと増やせれば、レスラーになるのも夢じゃないぞって思うようになりました。大学を卒業するときには90キロになったんですが、肉体的な変化が僕を夢に近づけてくれたんです。

――99年、大学卒業と同時に「新日本プロレス」に入門するわけですが、その前に受けられた入門テストは2度不合格になっています。その間、ほかの団体の入門テストを受けようとは思わなかったのですか?

レスラーの道を目指すのであれば、日本一の団体でやりたいという思いは強かったですから、それはなかったですね。後で分かったことなんですが、若手選手が多くいて寮が満室のときなどはあまり採用しないとか、入門テストというのは、運やタイミングもあるんですよ。1回目のときは、入門テストをすべてクリアしても、落ちてしまったぐらいですから。それで、直談判して、2回目を受けたんですが、今度は僕が風邪をひいて、体調を崩してしまった。それでも諦めなくて、ホント良かったです。

大きな転機となった無観客試合

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――その後、ヤングライオン(若手選手)時代を経て、現在のトレードマークである長髪姿にされるわけですが、なぜ長髪にしたのでしょうか?

僕は長州(力)さんたちに憧れていた世代ですから、「レスラーは長髪がカッコいい」と、解釈をしていたからです(笑)。レスラーは個性が大事だと思いますし、とにかくファンの方に覚えてもらわなくてはいけない。当時の僕はとにかく個性がなく、印象が薄かったので、どこかでインパクトを付けたかったんですよね。

――その後、大きな転機となった試合を教えてください。

04年の「KING of SPORTS」で、村上和成選手と金網マッチをしたときです。レスラーとして、勝ってうれしい、負けて悔しいといった感情の次に、お客さんの歓声も試合の手応えなんです。それがまったく得られないときは、次の試合まで、ずっと凹むんですよ。その日は、なぜか観客もレフェリーもいない隔離された場所での試合だったこともあって、まったく手応えがなかったんです。そのとき、先輩の後藤達俊選手に「自分が精一杯やれたんだったら、胸を張れ!」と言われ、その日以来、「どれだけの熱量で、自分が精一杯やれたか」という基準ができました。

チャンピオンになりながら 観客からブーイング

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――戦い方が従来の“ストロングスタイル(強さによる実力主義を前面に打ち出した定番スタイル)”とは異なることも話題になりましたが、それはある種の狙いがあったのでしょうか?

僕から言わせてもらうと、ストロングスタイルというものは、あくまでも新日本プロレスのイメージであって、これという実体はないんです。(アントニオ)猪木さんも含め、具体的に説明できる人は、誰一人いませんから! ただ、当時の僕は、同じようなコンテンツにしがみつくんじゃなく、根本的に何かを変えなきゃいけないという思いがありました。それがあまりに急だったので、イレギュラーな反応が起こるという結果になってしまったんだと思います。

――その流れもあってか、06年にIWGP王座初戴冠を果たしながらも、観客からブーイングを受けるという状況に直面しますよね。

普通、チャンピオンになったら、自分の時代が来るのは当然だし、ファンから祝福を受けるのが当たり前だと思っていたら、ブーイングが起きちゃったんですよね(笑)。みんな棚橋が「チャラい」とか、「何となくいけ好かない」とか、とにかく生理的に苦手だったみたいなんです。

レスラーを演じるのではなく 素で勝負すること

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――それでも、何かを変えなきゃいけないと、想いは強まっていきますよね。

正解は分からなかったんですけど、プロレスを世の中にもっと広めていくためには、リングの上で選手がこれまでと同じように頑張っているだけでは、何も変わらない。つまり、リングの中も変えなきゃいけない。そのために、プロレスを見たことのない人に対し、常にメッセージを送り続けて、初めての人が見ても分かる試合をやり続けました。マニア受けする試合だったり、マイノリティならではの結束の強さや嬉しさも大切ですけれど、それだけではいけないんです。その考え方や姿勢は、今でも変わっていませんね。

――そういった新日本プロレスへの愛から、「愛してま~す!!」という名言が生み出され、09年には「プロレス大賞」の最優秀選手賞も受賞。次第に、会場でのブーイングは沈静化していきます。

プロレスラーって、デカくて、いかつくて、野蛮そうで、タンクトップにバギーパンツ姿って、イメージが強いと思いますけれど、僕はそのプロレスラーっぽさがなかったことも良かったですし、逆にそれを利用しようとも思いました。それで、プロレスラーの棚橋弘至を演じるんじゃなく、ファッションも、仮面ライダーも、新日本プロレスも好きということを自分から発信し始めました。それにより、自分のオンとオフはなくなりましたが、それがファンからの支持に繋がりましたし、素で勝負できるやつがいちばん強いことを、身をもって感じました。

~次回は初主演映画『パパはわるものチャンピオン』についても語っていただきます~

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棚橋弘至(たなはし ひろし)

1976年11月13日生まれ。岐阜県出身。立命館大学法学部卒業後、99年に「新日本プロレスに」入門。同年、真壁伸也(現・刀義)戦でデビューし、日本人離れした肉体で、団体最高峰のベルト・IWGPヘビー級王座に輝く。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の歴代最多防衛記録を達成するほか、今年のG1 CLIMAX 28では3年ぶり3度目の優勝を果たした。

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『パパはわるものチャンピオン』

いつも優しい父・孝志(棚橋弘至)が嫌われ者の悪役レスラー、ゴキブリマスクであることを知って、最初は恥ずかしく思っていた息子の祥太(寺田心)。だが、懸命に戦うゴキブリマスクの姿を見るうちに、次第に気持ちが変わりはじめていく。
http://papawaru.jp/
2018年9月21日より、全国公開
(C)2018「パパはわるものチャンピオン」製作委員会

くれい響 (くれい ひびき)

1971年東京都出身。映画評論家。幼少時代から映画館に通い、大学在学中にクイズ番組「カルトQ」(B級映画の回)で優勝。その後、バラエティ番組制作を経て、「映画秘宝」(洋泉社)編集部員からフリーに。映画誌・情報誌のほか、劇場プログラムなどにも寄稿。

文=くれい響
撮影=白澤 正
スタイリスト=小林洋治郎(Yolken)
ヘアメイク=山田みずき

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