「誰でもいい、助けてくれ」。横浜F最後の監督、エンゲルスが直面したクラブ消滅【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

「誰でもいい、助けてくれ」。横浜F最後の監督、エンゲルスが直面したクラブ消滅【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

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  • 更新日:2017/10/14
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横浜フリューゲルス最後の監督となったゲルト・エンゲルス氏【写真:宇都宮徹壱】

「きっと誰かが助けてくれると僕は信じていた」

かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【後編】(取材・文:宇都宮徹壱)

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(10月29日の)練習の前に、選手とスタッフが会議室に集められて社長(山田恒彦)から合併に関する説明があった。ぜんぜん納得できない人、「(合併阻止のために)戦おう!」と言う人、いろいろいたね。

実は僕自身、この時はあまり落ち込んではいなかった。確かにシリアスな話ではあったけれど、スポンサーが撤退する話はドイツでもある話だし、それでもクラブは残っていくはずだと思っていたから。

クラブって、その地域や市民の共有財産であり文化でしょ? スポンサーが撤退するにしても、別の企業だったり自治体だったり、必ずとこかが救済に名乗りを上げてくれる。フリューゲルスも、きっと誰かが助けてくれると僕は信じていた。

もちろん、クラブ側も多少の痛みを覚悟する必要がある。予算を半分にしましょうとか、山口や淳宏やサンパイオを売りましょうとか、来季からはユースの選手を中心に編成を考えましょうとか。ドイツにはバイエルンのようなビッグクラブがあれば、うんと小さな予算規模で頑張っているクラブもたくさんある。

でもあの頃のJリーグは、どのクラブもだいたい同じくらいの予算規模でやっていたよね。だから佐藤工業が抜けて、全日空だけになったら無理だ、という話になってしまった。「予算を抑える形でクラブを存続させよう」という発想がなかったよね。

(三ツ沢での最後の試合で「誰でもいい、助けてくれ」と叫んだことは)今でも覚えているよ。どこかで何とかなると思っていたし、選手も署名活動を一生懸命やっていたからね。でも、結局は誰も助けてくれなかった。

いや本当は、救済しようという企業もあったんじゃないかな。僕が知らないところで、いろいろなやりとりはあったと思う。でも、どこかでブロックされたんだろうね。

僕は今でも、合併せずにフリューゲルスは存続できたと考えている。いくらでもやりようはあったのに、それを断念させる「何か」が働いたんだと思う。

天皇杯は「十分にチャンスがあると思っていた」

(合併が不可避だと悟ったのは)僕は遅い方だったね。リーグ戦が終わるタイミング(11月14日)くらいかな。選手はそれより少し早いタイミングで、次の行き先のクラブとサインしていたね。

そのあとの天皇杯も、あまり出番がなかったサテライトの選手を出して、(新しい移籍先の)アピールの場にしようという意見が選手側から出ていた。

僕としては、天皇杯もベストで戦って、より多くのタイトルを目指すべきだと考えていたし、そう選手たちにも伝えていた。最終的には、彼らの意見を尊重することにしたんだけどね。結局ベストメンバーで行くことになって、僕はちょっとホッとしたよ。

僕がなぜホッとしたかというと、天皇杯では十分にチャンスがあると思っていたから。チャーリーからチームを引き継いで、実際の成績以上に実力があると思っていたし、いいメンバーも揃っていた。(イゴール・)レディアコフだけが移籍の問題でチームを離れたけれど、それ以外は全員が天皇杯でも戦ってくれることになった。

それにカップ戦は一発勝負だから、何が起こるかわからない。相手が鹿島(アントラーズ)でもジュビロでも、十分に勝機はあると思っていたね。

(3回戦の)大塚FCは4-2、そして(4回戦の)ヴァンフォーレ甲府は3-0だったかな。そのあと(準々決勝の)ジュビロ、(準決勝の)鹿島と強豪との対戦が続いたけど、僕は大塚や甲府よりもやりやすいと思った。

強い相手のほうが負けても恥じることはないし、むしろ選手たちのモチベーションが高まっていったからね。だから準々決勝(2-1)も準決勝(1-0)も、ウチが先制して上手くゲームコントロールをしながら勝利することができた。もちろん危ないシーンもあったけれど、そんなに不安を感じることはなかったね。

天皇杯優勝を喜んだのはロッカールームを出るまで

清水(エスパルス)との決勝は、確か(この大会で)初めて先制されたんじゃないかな(註:13分に澤登正朗が得点)。でも前半終了間際(44分)に久保山(由清)が同点ゴールを決めてくれた。

僕は前半は0-1でもいいと思っていたくらいだから、ラッキーパンチみたいなゴールで「行ける!」と確信したね。心配だったのは、選手のセルフコントロール。プレッシャーは当然あっただろうし、来季の移籍先でのことを考えて「無理をしないでおこう」という誘惑もあったかもしれない。

でも、彼らは本当によく頑張ってくれた。吉田孝行のゴールが決まった時(73分)、「これは間違いない」と思ったね。

優勝が決まったときは、もちろん僕も喜んでいましたよ。でもそれは、ロッカールームを出るまでだったね。いつもだったら「2月に始動するときに、また会いましょう」っていう挨拶になるんだけど、もうこのチームで再会することはなかったからね。

そのあと新横浜駅で優勝報告会をして、全日空ホテルで祝賀パーティーもあったけれど、あまりよく覚えていない。スピーチでもあまり深い話はできなかったし、みんなと飲んでいるときも大人しくしていたね(苦笑)。やっぱりフリューゲルスが無くなることに、最後まで納得できていなかったからだと思う。

その後、僕は祖母井さんに誘われてジェフ市原の監督になった。でもファーストステージでクビになったね。15位だったけど、僕自身はそんなに悪くない思っていた。前の年は(年間順位で)16位だったわけだし、若い阿部(勇樹)をレギュラーに定着させたしね。

それから京都のコーチになったら、加茂さんが解任されて僕が次の監督になった。その年(00年)はJ2に降格したけど、次の年はJ1に復帰させたし、02年には再び天皇杯に優勝したので、京都での思い出は悪くない。

浦和でも、ホルガー・オジェックに代わってコーチから監督に昇格した(08年)。結局1シーズンでクビになったけど、3つのクラブでコーチから監督になったのは、珍しいキャリアだよね(笑)。

当たり前に存在していたものが、突然失われる悲しみ

11年にDFB(ドイツサッカー連盟)から紹介されてモザンビーク代表の監督に就任した。20年以上前の内戦の傷跡が残っている貧しい国だけど、僕はモザンビークに可能性を感じていた。だから僕は最初の会見で「ワールドカップ初出場を目指したい」と言ったね。誰も本気にはしなかったけれど。

(14年大会の)予選は、エジプト、ギニア、ジンバブエと同じ組だった。ギニアとジンバブエには引き分けることができたけど、結局は1勝も挙げられず3位に終わったね。予選突破の可能性が無くなった時点で、僕は監督を辞任した。自分から辞めることを決断したのは、後にも先にもこれが唯一だね。

今は故郷のデューレンで『サッカーライフ』というスクールをやっていて、日本からの若い選手を受け入れている。いいタレントがいたら、クラブを紹介して練習参加させるよ。

逆に才能がない選手には、はっきり「無理だよ」と言うようにしている。お金を払ってドイツに行けばプロになれると勘違いしている若い子は、まだまだいるからね。

日本とドイツでは、夢や目標設定というところで差があるように思う。日本だと「頑張れば何とかなる」みたいなイメージがあるよね。ドイツの子供たちは、もっと現実的ですよ。

僕にとってのフリューゲルス? まあ、合併とか天皇杯優勝とかいろいろあったけど、僕にとっては「初めてプロの指導者になったクラブ」だよね。当時の選手やスタッフとは、今でもLINEでつながっている。

ただ、やっぱりクラブがなくなってしまったのは寂しいよね。当たり前に存在していたものが、突然に失われる悲しみ。人生でもたまにあるよね。家族とか友だちとか。当たり前なものを、もっと大事にしてほしいし、何かあったら絶対に守るべき。そのことは、みんなにわかってほしいね。

<文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)

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