ベテラン平野謙が愛のムチ。若き清原和博に「あいさつに来い」

ベテラン平野謙が愛のムチ。若き清原和博に「あいさつに来い」

  • Sportiva
  • 更新日:2019/04/23

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(25)
【ベテラン】西武・平野謙 前編

(前回の記事はこちら>>)

四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の13人目。

第7回のテーマは「ベテラン」。百戦錬磨の手練れたちは、何を考え、何を思い、後輩たちの範となってチームをけん引したのか。まずは西武・平野謙のインタビューをお届けしよう。

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ベテランとして黄金期の西武を支えた平野(左)と森祇晶監督(右)photo by Sankei Visual

プロ15年目、感覚のズレが出始めていた

――1992年、そして翌1993年の日本シリーズについて、みなさんにお話を伺っています。

平野 1992年、そして1993年の日本シリーズね。あの頃は、日本シリーズで勝つよりも、パ・リーグで優勝するほうが難しかったような記憶があります。

――西武は、広岡達朗監督時代の1985年、森祇晶監督になってからの1986~1988年、そして1990年から1994年までの10年間で9回もパ・リーグを制覇しました。平野さんが在籍した1988年から1993年の6年間だけでも、5度のリーグ優勝を経験しているにもかかわらずですか?

平野 記録を見れば確かにそうなんでしょうけど、個人的にはパ・リーグでの戦いがとても厳しかった印象が残っています。もちろん、「普通にやっていれば日本シリーズには進出できる」という印象もあったけど、僕の場合は先のことを考えるよりは、目の前のペナントを終えてから次の日本シリーズのことを考える、という感じでしたね。

――この頃のライオンズは、まさに円熟期に入っていたように思います。当事者として、当時の平野さんはどのように自軍のことを見ていましたか?

平野 すでに”出来上がっている”選手が集まっていたチームだったという気がします。ただ、僕自身のことで言うと、1992年にはすでにプロ15年目の37歳、1993年は16年目の38歳でしたから、出来上がりすぎて”とうが立っている”感じでしたけどね(笑)。特にこの頃は、自分の感覚と実際のプレーに、少しずつズレが出始めた頃でしたしね。

――「感覚のズレ」とは、具体的にはどのようなことでしょうか? 1992年も1993年も、ゴールデングラブ賞を獲得しています。まだまだ衰えていたようには思えませんが……。

平野 いや、むしろ逆ですね。守備のほうの衰えが顕著でした。打つほうは、もともとあまり好きじゃなかったし、こだわりもなかったので、「打てても、打てなくてもどうでもいいや」って思っていたんです(笑)。感覚の差が出始めたのは、まずは守備からでした。たとえば、「これは補殺できるぞ」と思った送球がアウトにならなかったり、「これは捕れるぞ」という打球が捕れなかったり、そういうことが少しずつ出始めるんだよね。

――当時はまったく、そんなことを感じさせないように見えました。

平野 そうですね。それは公にはしていなかったけど、実は内緒で少しだけグローブを大きくして、「道具でカバーしよう」と考えていました。この頃は、目も肩も脚力も衰えつつあったけど、特にフットワークが悪くなってきたので、それまでよりも少し前に守るようになっていました。

選手それぞれが、自分の役割をきちんと理解していた

――ライオンズの黄金時代には「二番・ライト」という固定した役割を与えられていましたが、どんな意識を持ってこの役割を演じていたのですか?

平野 当時のライオンズは、それぞれの役割が明確でしたよね。一番・辻(発彦)が塁に出て、二番の僕が送って、秋山(幸二)、清原(和博)、(オレステス・)デストラーデのクリーンアップで得点を稼ぐ。そういう役割がありました。僕が意識していたのは、そんなに難しいことじゃなくて、「一番が出塁すれば、きちんと送ろう」「アウトカウントによってはエンドランもあるぞ」ということ。あるいは、「一番が出塁しなければ、自分が何とか塁に出よう」ぐらいの意識でした。

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現在はBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスで監督を務める平野氏 photo by Hasegawa Shoichi

――チャンスメイクをした上で、強力クリーンアップにつなげようという意識が強かったんですね。

平野 確かにそうですね。三番、四番、五番が強固だったので、一番、二番の役割も明確だったんだと思います。ただ、結果的にあの頃のライオンズは強かったけど、自分が二番でレギュラーだったんだから、決して「黄金時代だった」とは言えないと思いますけどね(笑)。決して謙遜なんかじゃなくて、本当にそう思うんですよ。

――では、仮に平野さんよりも守備率のいいライトや、もっと打率の高い二番打者がいれば、本当の黄金時代だったとお考えですか?

平野 うーん、どうでしょうね。ただ、あの当時の西武は個性的な選手が揃っていたのでお客さんは楽しかったと思うし、そういう意味では黄金時代だったのかもしれないですけど。さっきも言ったけど、選手それぞれが自分の役割をきちんとわかっていて、その役割を忠実に演じることで、チームとして機能していたんです。みんな、サインを出されなくても「次はこうすればいいんだ」と理解していました。自分の考えとベンチの考えが一致すると、失敗も少なくなるんです。

――ライオンズ投手陣の印象はいかがでしたか?

平野 この日本シリーズの印象で言えば、タケ(石井丈裕)がすごかったですよね。でも、他にも(工藤)公康だ、ナベ(渡辺久信)だ、(郭)泰源だって、いくらでもいいピッチャーがいた。「誰が一番すごいか?」って聞かれても、ひとりの名前を挙げるのは難しいぐらい、すばらしいピッチャーばかりでしたね(笑)。

ベテランとして、清原の面倒を見ていた

――1992年当時は38歳の大宮龍男さんに次ぐ、37歳でした。年長者として、ベテランとしての役割などはありましたか?

平野 年齢で言えば、僕は上から二番目だったし、外からやってきた(1987年にトレードで中日から移籍)選手だったので、逆に周りが僕に気を遣ってくれました。ただ、キヨ(清原)との接し方は自分なりに意識しましたね。いつもロッカーでは、「おいキヨ、いるんか? あいさつに来ないから、いるのかいないのかわかんねぇよ」って言ったりしましたよ。

――清原さんに、そのように接したのは理由があるんですか?

平野 鳴り物入りで入ってきた男だから”腫れ物に触る”というのか、周りが扱いに困っている部分があったんです。でも、僕のような外から来た人間にとっては、そういう部分は関係ないからね。「あいさつもまともにできない」という噂は聞いていたけど、彼もまだ子どもだったから。のほほんとしている部分もあったし、おっとりした部分もあったから、「やかましい先輩がひとりぐらいいてもええやろ」って思って、そういうことを言ったんです。

――すでにベテランという立場になっていたし、生え抜き選手ではないからこそ、フランクに清原さんとつき合おうとされたんですね。

平野 まぁ、そういうことですね。おかげで、その後もキヨとはいい関係が築けたと思いますよ。後に、僕がロッテの二軍監督で、彼がジャイアンツのファームで調整していたときに、よくジャイアンツ球場で一緒になったんです。そのときにも、アイツはすぐに駆け寄ってきて、あいさつしてくれるようになった。まぁ、ベテランとして僕がやっていたのは、それぐらいのことでしたね。

(後編に続く)

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