石原さとみが「女子力の権化」からフェミニストになった瞬間

石原さとみが「女子力の権化」からフェミニストになった瞬間

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2018/08/08
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前編では、石原さとみの役柄が、日本の女子の生きづらさを体現してきたこと、その役柄が「第一形態」から「第三形態」まで進化してきたことを指摘した。「第一形態」の頃は、仕事上での能力は問われず、健気で明るく、周りから愛され、男性から選ばれることに重きがおかれてきた。「第二形態」期の役は、キャリアや能力は得たものの、その上に「女子力」を求められ、プレッシャーに苦しんでいた。後編は、第二形態期の代表作『失恋ショコラティエ』から振り返っていく。

「女子力の権化」は疲れ切っていた

2014年のフジテレビの月9『失恋ショコラティエ』は、ヒロインのサエコ(石原)の恋愛テクニックの巧妙さ、とことんまでシビアな恋愛観を描き、話題になった。

サエコは、学生時代から学年一のイケメンを次々と彼氏にしてきたツワモノ、恋愛強者だ。そんなサエコに15歳のときから片思いしているのが松本潤演じる爽太である。年齢はサエコの1歳年下だ。

しかしサエコは、結婚願望を抱いていた26歳のとき、年上の雑誌編集者を夫に選ぶ。結婚には派手さよりも堅実さを求めたのだ。

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フジテレビのサイトより(現在は削除されています)

だが、次に爽太がサエコの目の前に現れたとき、彼は頼りない年下の男の子ではなく、フランス帰りのイケメンショコラティエへと変貌を遂げていた。一度は堅実な年上男性との結婚という保守的な道を選んだサエコだが、その生活に満足するような性格ではなかったのだろう、爽太の気持ちを自分の方に向けようと、かつて使っていたテクニック(女子力)を総動員するようになる……。

確認しておくと、「第二形態」の石原が演じる女性たちは、キャリアや能力を手に入れていたのだった。しかし同時に、第一形態のときと同様、愛嬌をも求められ、そのプレッシャーに苦しんでいた。

サエコの場合も、主婦として暮らしてはいるものの、能力の高さはきちんと描かれている。モテに対して異様なまでに研究熱心で、実践でも負け知らずだ。何に対しても全力で臨めば結果が出せる能力の持ち主であることが示唆される。爽太が作るチョコに対して的確な助言ができるシーンからも、そうした能力の高さがうかがえる。

では、なぜサエコは雑誌編集者と結婚し、一度は主婦に収まったのだろう。

2018年現在でこそ、恋愛が女性を救済するものとは思われなくなっているが、2000年代は、恋愛こそが女性を勝ち組にするものだという考えが根強かった。当時の女性誌に「愛され」や「モテ」という言葉が多様され、「彼ママ」の目を気にしたファッション特集が組まれていたことからもそれがわかる。

男性に愛されることによって一発逆転する--フィクションやファッション誌などが女性たちこぞってそんな夢を見させていたのが、2010年前後の風潮であった。それが描かれていたのが、石原さとみの第一形態だったことは前編で見た通りだ。

サエコは、女性に「仕事も女子力も」が求められた第二形態の時代に、そうした風潮についていけず「揺り戻し」として現れた女性と言えるだろう。いわば、第一形態の幸せにしがみついた亡霊でもある。

加えて、サエコは頑張り屋だ。キャリアと同様、恋愛でも頑張ってしまう。結果を出そうと考える。サエコは恋愛を「勝ち組」になるための勝負と考え夢中になってしまったため、「勝ち組」になった後も人生が続くと言うことには、気づいていなかったのではないだろうか。

そこには、サエコの母親世代の呪縛がある。

実際、サエコの母親は、サエコが夫に不満を抱いていても、稼ぎがあり義父母の世話の必要もない最高の夫の機嫌をとるのが妻の仕事であると諭すシーンすらある。

サエコの母親世代の女性は、外に出て十分なキャリアを得ることは難しかった。それゆえ、生活レベルで現状を維持してくれる旦那がいることは、それだけで安泰の印であると思われていた。

しかし、今は完全に賃金格差がなくなったわけではないが、女性にも結婚生活を放棄しても、働く場は見つけられる。

そんな社会構造の変化を無視して、母親世代の「幸せ」を信じすぎた結果、サエコはちぐはぐな状態に陥ってしまった。保守的な結婚をゴールに決めたばかりに、ミーハーで好奇心が強く、恋愛であれ何であれアグレッシブに突き進む本来の性質を押し殺してしまった。「将来を見越して保守的に生きるほうが、女の子は幸せになれる」という教えを真に受けたばかりに、自分で自分を抑圧しているのだ。

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『失恋ショコラティエ』は漫画原作も人気を博した

さらに物語の終盤でサエコは気づいてしまう。モテのテクニックで男性たちの気を引いたとしても、彼らが見ているのは、女子力で作り込み「擬態」した自分でしかないのだと。

さらに、夫だけではなく、夫との平凡な毎日から救ってくれると思っていた爽太ですら、独り善がりに、彼女を創作のためのミューズと見ているという残酷な現実にも気づいてしまった。「女子力」を突き詰めても、そこには虚しさが待っている可能性のほうが高いのだ、と。

2000年代の女性誌は「愛され」や「モテ」の文字が誌面を飾り、それはやがて「女子力」と翻訳された。2010年代になっても女性は「女子力」を駆使し、仕事でも恋愛でも勝たなければいけないというメッセージが発信し続けられていた。

しかし、そうしたなか、次第に「女子力疲れ」を訴える女性も現れ始めていた。サエコも「女子力」さえあれば、生存できると信じていた人物であるが、その実、そうした状況にとても疲れていたのではないか。今『失恋ショコラティエ』を見ると、改めてそう思う。

『失恋ショコラティエ』で女子力の権化を演じた石原は、同作と同じ年、2014年に『ディア・シスター』に出演する。前作の反動からか、妹キャラで誰からも愛されて育ったが、どこかやさぐれた雰囲気を持つ、無職で奔放な桜庭美咲を演じた。

本作は、真面目で不器用な姉(松下奈緒)と、奔放で愛されキャラの妹の対比と姉妹の情を描こうとした作品だと考えられる。同年に大ヒットしたディズニー映画『アナと雪の女王』の影響を受けたWヒロインものだとも言われる。

『アナ雪』では“真面目で不器用な”姉のエルサが、「ありのーままでー♪」と歌う。その歌詞から「女性に対する抑圧と、そこからの解放」というフェミニズムの考え方が、同作のヒットをきっかけに徐々に定着していったようにも思える。

しかし、『ディア・シスター』は、「姉妹もの」という『アナ雪』の外見を借りてきただけで、その思想を深いレベルで表現できていたとは言いづらい。つまり、この時期の石原はまだ第二形態にいると考えられる。しかしその4年後、彼女の役は一変する。それまでの抑圧を振り切るかのような変貌を遂げるのだ。

『アンナチュラル』という革命

石原の役が、明確に「第三形態」へと脱皮したのが、2018年の『アンナチュラル』だ。本作で演じた法医解剖医の三澄ミコトというキャラクターは、フェミニズムの考え方を「当たり前」のものとして持っている。

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TBSのサイトより

ミコトは、これまで石原が演じてきたキャラクターとはまったく違う。彼女は、ドジっ子でも、明るく健気なキャラクターでも、女子力が発揮する威力を信じてそれを身に着けようとしているわけでもなく、静かで落ち着いた女性である。

そして、「女性だから」という視線を向けられれば、愛想や愛嬌でその場の空気を悪くしないよう気を遣うのではなく、空気を乱そうがなんだろうが、きちんと言葉を用いて違和感を表明することができる。

ミコトがある事件の証人を依頼された際、担当検事が、彼女が若い女性なのを見て「助手ではなくて?」「女性だとは……」と言うシーンがあるが、ミコトは、落ち着いた口調で「女性で、何か問題でも?」と言える。

また、検事から「余計なことは考えてくださらなくて結構、まとめを参考に、聞かれたことだけを答えてください、それくらいはできますよね」と舐めた発言をされれば、あからさまな不服の表情で応じる。

こんなシーンもある。同僚の東海林夕子(市川実日子)が合コンで昏睡状態になりホテルに連れ込まれるという事件が起きる。その後、男性刑事から「よく知らない男と酒を飲んで酔っ払う方にも問題がある」と言われるが、ミコトは「女性がどんな服を着ていようが、お酒を飲んで酔っ払っていようが、好きにしていい理由にはなりません。合意のない性行為は犯罪です」と、決然と反論する。

石原の出演作品を延々と見返してきた筆者は、ついに石原が、女性蔑視の言動に対して、明確に違和感を持ち、決して作り笑顔でやりすごすことのないキャラクターへと変貌を遂げたことに深い感慨を抱いた。

しかもミコトは、自身が勉強してきたことを存分に生かすことができている。女性である自分が仕事ができると周囲の雰囲気を悪くするのではないか…といった余計なことは気にしない。自分を低く見せたり、親しみやすさを演出したり、「女子力」を発揮しなければと考えることもない。

疑問を感じたらちゃんとそれを表明してもいいし、結婚していないからといって他の女性に負けたと感じることもない(合コンばかりしている同僚の東海林には「結婚することで女性として勝ちたい」という意識はないことが示唆されるし、それを見たミコトも「人にはそれぞれの考えがある」と認めるだけだ)。

最終的に恋愛で救われるような結末も迎えない。ドジをしてテヘっとなるシーンもない。

それはすべて、これまでの石原、いや彼女だけでなく、長らく多くのヒロインに求められてきたキャラクターを覆すものであった。

2018年、つまり今年は、海外からの影響を受け、日本でも「#MeToo運動」が活発になった年である。もちろん、まだその意味が広く周知され、効果が出ているとは言い難いかもしれない。しかし、「女性が反論をしてもいい」「抑圧を振り払ってもいい」という考え方が浸透してきたとは、確実に言えるだろう。

ミコトは、そんな時代を背負って生まれたキャラクターだった。

『高嶺の花』はどうか?

同作が終わってから3ヶ月、石原は『高嶺の花』に出演中である。本作で石原は、容姿端麗で家柄も良く、才能があり、すべてを持ち合わせたヒロイン・月島ももを演じている。

『アンナチュラル』で、女性蔑視にNOを突きつけるキャラクターを演じた後に、どんなキャラクターを演じるのか、筆者は強い興味を持っていた。前時代に逆戻りしたような女性像が描かれないか…という懸念があったのも事実だ。

しかし同作を見ると、今のところそれは杞憂だったようだ。第一形態と第二形態を経て石原がたどり着いた、一つの形のようにも見える。

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日本テレビの番組サイトより

キャバクラで働くももは、結婚式の当日に結婚が破談になるという経験をし、失意のなか生きている。しかし、そうした過去を恥じることはない。女として酸いも甘いも嚙み分けた女性であるということを隠さないのだ。

それは、『失恋ショコラティエ』で、モテることに最適化するあまり自分が何者であるかを見失いかけてきたサエコの未来形のようにも見える。もう、擬態して、幻想を抱かれることなどまっぴらなのである。

石原が、冴えない自転車屋の男・風間直人(峯田和伸)に心を許し、上から目線でつきあうことをほのめかしたのに対して、「俺にはもったいないです」と躊躇したときに「たーかーねーのーはーなーよー(私は高嶺の花よ、だからつきあったほうがいいのよ)」と啖呵を切る(という表現が最もふさわしいだろう)シーンがあるが、自分の魅力や能力の高さを、男性の風間直人に対して、隠すようなことは絶対にしない。

男性の幻想にあわせるために、わざと弱々しい態度をしたりすることは一切ないのだ(ももは華道の家元であることは隠しているが、それは自分の能力を低く見せるためではない。むしろ自分の正体を知らせないほうが、純粋な愛が手に入れられるのではないかという期待の表れだろう)。

それは現在ももが働いているキャバクラでも同じで、指名がたくさんあっても、気分が乗らなければ、「一人で飲みたい」と言って、ボーイの要望をはねのけることができる。もちろん、それは美貌を持つ石原さとみだから可能なことだ、という言い方もできるかもしれない。しかし、過去の石原の役柄を考えれば、それすらも大きな変化なのだ。

『ブルドクター』では、法医学者の彼氏に都合の良い女扱いをされていた。『失恋ショコラティエ』のサエコは、自らを擬態し、男性の幻想に合わせる代わりに、安定した生活を保障してもらっていたが、ときに暴力を振るわれていた。しかし、『高嶺の花』のももは、もうそんな失敗はしない。

下手(したて)に出ても、暴力を振るわれたり、ぞんざいに扱われたりするだけだ、私にはすべてがある、むしろあなたは一体何をしてくれるの? と、これまでとは逆に、男性の側に突きつけるのだ。

本作のジェンダー観は、まったく新しいというものではない。だが、それでも見ていて嫌な感じがしない。それは、主演の石原は、傷ついてはいるが、それでもへりくだったり、自信のないキャラクターを演じることがないからではないだろうか。

石原は、第三形態になり、揺るぎない自尊心を手に入れたのだ。

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