知れば大河が面白くなる!西郷隆盛の「意外な実像」

知れば大河が面白くなる!西郷隆盛の「意外な実像」

  • 日刊大衆
  • 更新日:2018/01/14
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知れば大河が面白くなる!西郷隆盛の「意外な実像」

上野公園の銅像で知られる稀代の英雄が、ついに日曜夜8時のテレビに登場だ。その意外な実像を紹介!

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「もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」 坂本龍馬にそう評された西郷隆盛は、幕末維新の大立役者。2018年NHK大河ドラマ『西郷どん』も早くも話題となっている。ベールに包まれた英雄の実像を浮き彫りにしてみよう。

まず、西郷さんといえば、豪快で明るく面倒見が良い人物、という印象を持つ人が多いだろう。だが、歴史学者の渡邊大門氏は、西郷隆盛の性格について、こう語る。「西郷は仲間を大切にし、度量が大きく強い信念を持つ人といわれています。しかし、最近では、粘着質かつ神経質で執念深く、人の好き嫌いが激しかった面もあったといわれるようになってきました」

あれれ、いきなり、英雄のイメージが崩れてしまった……。とはいえ、生前の西郷の発言をまとめた『南洲翁遺訓』という史料には、〈命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉という言葉が残されている。そこから見えるのは禁欲的なイメージ。「金や名誉にこだわっている者は国家の大事を成し遂げられない」というわけだ。

■気になる、お金の関係は?

では、実際に西郷と金の関係は?「明治維新後、新政府は戊辰戦争で戦功のあった諸藩の藩主や藩士に『賞典禄』という“恩賞”を与えており、西郷は藩士の中で最高額の2000石と正三位という官位を与えられました。ところが西郷は賞典禄と官位の返上を新政府に願い出たんです」(歴史雑誌記者)

官位も金もいらぬ、清貧を体現する人物というのは本当だったのだ。そんな西郷の人格形成を探る際、重要になるのが薩摩特有の郷中教育。「薩摩藩では25歳までの武士の子弟が『郷中』という組織に入り、若輩の者は年上の者への絶対服従が求められました。郷中での教育で質素・剛健な薩摩武士としての資質が養われたんです」(郷土史研究家)

なお、郷中教育の三本柱は(1)負けるな(2)弱い者を虐めるな(3)嘘をつくな。西郷も、この郷中教育の薫陶を受けたわけだが、彼が生涯尊敬の念を抱き続けた薩摩藩主・島津斉彬は、郷中の指導層である二才らが、“喧嘩することを手柄”と思い込み、「士道にあるまじき卑劣」な行為が横行していると嘆いている。荒っぽい教育だったのかも?

■3人の女性と結婚

さて、ここで気になるのが色恋沙汰。西郷の女性関係は、どうだったのか。「西郷は3人の女性と結婚しています。最初の妻・俊子と結婚した頃は、江戸詰め暮らしが続いて結婚生活はないに等しく、おまけに家は小姑だらけ。彼女はそんな生活に耐えられず、離縁を申し出ました。のちに西郷が奄美大島へ配流されたとき、現地の農家の娘・愛加那と再婚。鹿児島へ召喚されると彼女と別れ、第1次長州戦争の征長軍参謀を務めあげたのち、3番目の妻となるイトと結婚しました」(前出の郷土史研究家)

西郷は、いわゆる“デブ専”だといわれる。勝海舟の談話をまとめた『氷川清話』に、「豚のごとく肥えていたから、豚姫と称せられた茶屋の仲居」が、「ひどく西郷に惚れて、西郷もまた、この仲居を愛していた」とあるからだ。この逸話を元に、『西郷と豚姫』という歌舞伎が上演されるなど、すっかり世に広まってしまったが、「これだけの根拠では彼を“デブ専”と断定できない。おそらく、『氷川清話』をネタ元に広まった俗説ではないかと思います」(歴史研究家の跡部蛮氏)

その3番目の妻イトは、明治31年(1898)、夫を顕彰するため上野恩賜公園に建てられた西郷隆盛像について、「その除幕式で、“主人はこんな人ではなかった”と漏らしたといわれています。西郷像を製作するにあたり、本物に近づけるのはかなり難しく、苦労があったようです」(前出の渡邊氏)

西郷は生前、写真を嫌って1枚も撮らせなかったといわれるからだ。巷間知られるキヨッソーネの肖像画も、西郷の没後に描かれたもの。つまり、銅像を製作するにあたり、参考にする写真がなかったわけだ。

■自害した西郷の首はニセモノ?

そこで大きな謎が生まれた。明治10年(1877)9月、西南戦争で政府軍に敗れ、反乱軍の大将として西郷の首が政府軍参謀・山県有朋の検視に供された。しかし、その首はニセ首。西郷に似た替え玉の首だったという謎だ。渡邊氏が、こう続ける。「確かに城山(鹿児島市)で自害した西郷の首はニセモノという噂がありました。しかし、金沢の陸軍歩兵第7連隊の千田登文中尉の関係者が残した自伝によって、その首は本物だと確認されているんです」

もう一つ、関連して興味深いのは、首から切り離された西郷の遺体の謎だ。西郷はフィラリアという病原菌に冒されて象皮病に罹り、陰嚢が腫れ上がっていたといわれる。だから、発見された遺体には首がなかったものの、その“特徴的な下半身”で西郷のものだと分かり、その死亡を確認できたという。ただし、西郷の“お稲荷さん”が本当に腫れ上がっていたのかどうかは定かでない。

■勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げるも…

西郷の首がニセモノだったという噂のみならず、当時、西郷が城山で死なず、生き残っていたという風評まで流れた。「西南戦争の14年後、西郷はシベリアで生きていたという新聞記事が掲載されているんです」(渡邊氏)

事実かどうかは別として、明治の半ばになっても、生存伝説がささやかれていたことで、西郷の偉大さが分かる。中でも最大の功績は、戊辰戦争の際に征討軍の参謀となった彼が、旧幕府軍の軍事取扱(軍事の責任者)だった勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げたことだろう。この「西郷・勝」会談が江戸の町を戦渦から救ったわけだが、最近の研究では、この西郷の輝かしい実績に疑問符がつくようになったという。「西郷は3月14日の会談の直前まで、一貫して対旧幕府強硬論者でした。ところが、会談では一転して旧幕府側の要求を飲み、江戸城への攻撃を中止させています。いったい、何があったのか」(前出の跡部氏)

謎を読み解くヒントはその前日、征討軍の参謀・木梨精一郎(長州藩士)がイギリス公使パークスと会見していることにあるという。「木梨がパークスに会った日付には諸説ありますが、13日だとしたら、西郷の態度の変化は頷けます。というのも、パークスは木梨に、“旧幕府への寛大な処置を”と強く望んでいるからです。新政府も英国の意向には逆らえず、翌14日の勝との会談で、西郷は譲歩したわけです」(前同)

日本が外圧に弱いのは150年前からのことで、江戸の市街を戦渦から守ったのは、英公使のパークスということになる。

一方で、西郷が維新後、征韓論を唱え、朝鮮出兵を望んだという通説も見直されつつあるという。「西郷の本音は“征韓”にあらず。朝鮮と条約を結び、南下するロシアの脅威に、両国が協力して対応しようという平和外交にあったとされるようになってきています」(同)

以上、知っているようで知らない西郷隆盛の実像を踏まえ、『西郷どん』を百倍楽しもうではありませんか。

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